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放浪記
その無軌道な足跡の数々


1999.12.12 12月の旅 I

前の週の日曜日に出勤した代休で、この週末は3連休となった。じゃあ、どこか遠出するか。と、適当にながらの指定を押さえる。いつものごとく、目的地は特に決めていなかったが、最も完乗率の低いJR四国の東側、すなわち徳島あたりを目指すことにする。ちなみに徳島は、那覇以外で唯一降り立ったことのない県庁所在地でもあった。ついでにうどんでも喰うとしよう。

指定券や他の予定の関係で、出発は土曜日の夜。旅慣れると、たかが1泊の旅行は荷物も少ないので、5分ほどで準備できてしまう。そんな読みがあるため、最近は本当に出発寸前まで全く準備をせずに、出発のせいぜい10分前に荷物の準備をするような始末。ともかく、あやうく乗り遅れそうになりつつも、東京に予定通りに到着。そろそろ日付の変わる時間帯だが、そんなことお構い無しに東京駅構内は混み合っている。ながらの発番10番ホームはそんなに混んではいなかったが、品川川崎横浜と道中順調に指定席が埋まっていく。

ムーンライトながらは東京〜大垣を走る全車指定の夜行列車である。ちょっと前までは大垣夜行、もしくは垣鈍と呼ばれる全席自由の夜行列車であり、18きっぷの時期ともなれば毎夜壮絶な席取り合戦が繰り広げられていたものだ。今でも、盆暮れには旧来通りの全席自由の臨時便が増発されて、相変わらずの阿鼻叫喚振りを発揮しているらしいが。なお、毎年盆暮れには有明だか晴海だかで非常に濃いイベントが催されるため、その時期のながらの乗客の濃さは尋常ではなく、居合わせたら非常に厭な気分になること間違いなし、だそうだ。なんでも今年の夏の上り列車では、まるごと一両分の指定券をある団体が押えて、車両の通路にカラーコーンを立てて、その車両で一晩中乱痴気騒ぎを繰り広げるなどという、たわけた大馬鹿までいたとか。阿呆が。

ムーンライトながらの指定券は、東京〜名古屋と東京〜小田原の2種類がある。9両編成のこの列車の先頭6両が東京〜名古屋、後ろ3両が東京〜小田原である。それぞれの指定の区間を過ぎれば、その車両は自由席になるのだが、大抵は指定券を持っている人間が引続き席に居座れるので、実質全区間に対する指定券と同等の効力を持つ。この列車の登場直後はこのシステムがいまいち浸透しておらず、東京〜小田原の指定券は大抵売れ残っていた。そのため、東京〜名古屋の指定が売り切れでも、東京〜小田原の指定はガラ空きなんてことがよくあったらしい。さすがに最近は利用者も賢くなりそんな旨い状況は無くなってきたが。

さて、手元の指定券は東京〜小田原。8号車である。って、後ろ3両は名古屋で切り離しかい。知らんかった。まだ夜も明けぬ早朝6:00、乗って来た車両が切り離されてしまい、座席を失い、哀しみにくれて先頭車両のデッキにたたずむ。今朝は冷え込むのう。

大垣。6両となったながらを迎えるのは、網干行きの4両編成。ながらはほぼ満席で到着するので、大垣駅の乗り換えは椅子取りゲームの様相を呈する。運良く陣どっていたながら1号車の後ろのドアの目の前が連絡通路の階段であったので、殺気立って走る乗客を後目にのんびりと余裕で座席を確保。とはいえ、どうせすぐに新快速に乗り換えなければならないのでこの列車の座席確保はどうでもよかったのだが。30分後、米原始発の新快速に乗り換えると、あとはしばらく乗り換えはないので、安心して寝こける。

三ノ宮。ここからは高速バスで淡路島経由で鳴門を目指す。妙に駅前を覚えていると思ったら、去年のスタンプラリーのゴール認定待ちで駅前をうろついて閑潰ししたのが、この三ノ宮駅であったか。運が良ければ橋の上から鳴門の渦潮でも見れんかな、とか云いながら、バスに乗り込むなりぐーがー寝込んで気がついたらすでに鳴門であった。この高速バスは徳島まで行くのだが、こちらは鳴門線に用があるので鳴門駅に近いと思われる鳴門撫養で降りる。この停留所、淡路島から橋で四国に入って本当にすぐの場所、それも高速道路上にあってちょっと面喰らう。高台にある停留所を離れ山の斜面をとぼとぼと下る。ふと見上げれば、真新しい橋梁が上空を貫いている。さて、停留所にあった略図をたよりに、鳴門駅を目指す。地図によると1kmほどとのこと。国鉄再建法で幻となったが、かつては鳴門から淡路島への鉄道延伸計画があったらしい。20年前の地図に計画線が見える。・・・ところで、かれこれ20分は歩いているのに、一向に駅が見えん。貨物とか倉庫とかいった駅独特の気配も全く見当たらない。はて? 綿密な計画(気分で変えること有り)の予定時間が迫る。鳴門発の次の列車を逃すと、午後はもちろん明日の予定もすっかり崩れてしまうので、結構焦る。あー、くそ、駅はどこじゃあ、コンビニかどこかで道でも訊くか、となかばヤケをおこしかけたところで鳴門駅が見えた。末端駅の哀しさか、市にある駅のくせにずいぶんと小さな駅だ。駅の三方は道路に囲まれ、途切れた線路の延長上には民家が立ち並び、この端点はこれ以上延びることはないように見える。結局、30分以上歩いたことになる・・・鳴門駅前にある高速バス停留所への道順案内によると、2kmとの案内。どうやら、こっちが正しいようだ。

【鳴門線の終端より ちょうど乗ろうとしている列車が留まっている】


今朝、米原のホームに並んでいた明け方は、曇天模様で歯の根も合わぬ程の冷え込みだったが、昼になると空も綺麗に晴れ上がり、いい陽気である。相変わらず風は冷たいが、日差しが暖かい。鳴門線の近くを流れる川の水面に照る光がまぶしい。鳴門から徳島までは30分ほどである。

徳島。ここからは牟岐線に乗り換えて、引続き紀伊水道沿いにずるずると南下を続ける。牟岐線は海沿いを走るはずなのだが、全然海が見えない。南小松島のあたりから港がチラと見えただけで、延々と田畑の中を走ってみたり、トンネルを潜り谷間を走り抜けてみたりと、まるで外房線のようだ。それでもたまに車窓から海が見え隠れしているので、確かに海岸線の近くを走っているようだが。やがて列車は牟岐に。大半の列車はここが終点で、牟岐を通過する列車は日に数本足らず。乗り換える。ここから15分足らずで牟岐線の終点、海部である。牟岐を過ぎるとようやく海線らしく海が見渡せるようになる。しかし、なぜに高架。高架にしなければならないほどの住宅密集地にも地形にも見えんが、海部まで立派な高架が延びている。国鉄末期に作られた路線ほど需要の割に設備が立派、というジレンマの体現か。

海部。交換設備のある無人の高架駅である。海部の手前にトマソン的なトンネルが見える。以前は上に土が盛ってあったのだろうが、どうしたわけかすっかり土が削れて剥き出しのコンクリートのみになっている。ここから先は、線路は繋がっているが別会社の3セクの安佐海岸鉄道になる。対面式ホームの向かいに停車している安佐海岸鉄道に乗り換える。この路線の開業はかなり最近のことだったと思う。長閑なあたりの田園風景に似つかわしくない立派な高架が相変わらず延びている。なお、この安佐海岸鉄道の駅数は3セク最小のたった3駅(ただし最短ではない、最短は三木鉄道)。海部を発ち、宍喰を過ぎ、甲浦で終着である。時間にしてわずかに10分。

甲浦。甲浦と云えば、この夏に座礁したフェリーが有名だが、現在そのフェリーは修理のため半年あまり欠航中。このほどようやく修理を終えて、来週12/18から運航再開と地元ニュースが報じていた。しかし、甲浦駅は終点駅のくせに寂れている。近所に店の一軒も見えない。過去の経験上、末端駅が賑わっていることはまずないので、まあ、予想の範囲内ではあるが。終点であるので線路は途切れ高架は唐突にぶっつりと途切れている。高架の延長上には山が立ち塞がる。バブル華やかなりし頃、甲浦から室戸を経て遠く高知への鉄道延伸計画があったという。沿線に大きな町がなく採算のあわない計画に思えるが、一部は実際に工事に着工し、ほんの一部だけ完成した高架が利用されることもなく、鳥の巣にまみれて墓石のように捨ておかれていると云う。

【甲浦の高架の終端】


この日は阿南泊。


翌朝。西日本の夜明けは遅い。6時すぎの列車で阿南を発った時点ではまだ真っ暗。中田駅(ちょっと難読)に降り立つ頃にようやく明るくなり、実際に陽が上ったのはさらに後のことであった。小松島市のはずれにある中田駅、駅前にとりたてて何がある訳でもない小さな駅である。なぜここに降り立ったかというと、ここから分岐していた路線の跡を辿るため。国鉄小松島線。小松島港からの乗客で結構利用されていたようだが、国鉄再建法の廃止基準に抵触し敢なく廃止。この廃止基準は線路の距離が短いと不利になるような計算式を使っていたため、国鉄最短の全長わずか1.9kmのこの路線はずいぶんとワリを喰ったことになる。13年前のことである。

小松島線の線路跡は綺麗に遊歩道に整備されて、中田駅から牟岐線と並行して延びている。遊歩道は中田駅から途切れること無く、C12と50系客車が静態保存されている小松島駅跡のステーションパークまで連なっている。遊歩道は民家の裏口、工場の塀に挟まれ、別の道に交わることなく延びている。典型的な廃線跡である。小松島線は中田〜小松島までであったが、フェリーの岸壁の移動に伴い小松島駅からさらに線路が延ばされ、その末端には小松島港臨時駅が設けられていた。最近まで小松島港駅跡はそのままバスの停留所に使われていたらしいが、すでに取り壊されたようだ。廃線跡をあるくIIにある写真の場所はすっかり更地になっていた。なお、今年の春から小松島港のフェリーがすべて徳島港に移ったという。小松島港にあるまだ新しい南海フェリーの事務所は閉鎖されている。かつては和歌山行きのフェリーが頻繁に接岸されていたという岸壁には所在無げにフェリーが繋留されていた。岸壁近くの食堂の主人に食事がてら昔話を訊かせてもらえた。小松島線をさらに延ばし、こちらを牟岐線にしてしまおうという計画もあったとかなんとか。岸壁に繋留されているフェリーはいずれ海外に売られていくのだという。なんなら最寄りの駅まで送ってやるよ、との言葉を丁重に辞して、小松島名物のちくわをかじりながら、小松島をあとにする。

【小松島ステーションパーク】


【線路跡の歩道 木々の向こうはもう海】


どうでもいいが、今回の放浪では徳島県の全ての市で降りたことになる。全国最小の4市(鳴門、徳島、小松島、阿南)だからなあ。

徳島からは徳島線。山線じゃのう。

阿波池田。山深い。駅前のアーケードが車道を兼ねていて違和感。

琴平。金比羅参拝。勢い余って奥社を拝む。奥社までの石段数は1300段余り。ビルなら50階相当である。我ながらよくやるわ。

【金毘羅奥社 遠い】


あとは、うどんを喰うためだけに高松に寄って、お帰り。以上。



今回巡った場所の薀蓄。

鳴門線
池谷〜鳴門。8.5km。阿波電気起動が大正5年に撫養まで、昭和3年に鳴門までを開通。昭和8年に国有化されて、国鉄阿波線となる。昭和10年に撫養線、さらに昭和27年に鳴門線と改称されて現在に至る。

牟岐線
徳島〜海部。79.3km。阿波国共同汽船が大正2年に徳島〜小松島を開業。大正6年に国有化されて、小松島軽便線となる。大正5年、阿南鉄道が小松島の一駅手前の中田(ちゅうでん)〜古庄までを開業し、これが牟岐線のはじまり。昭和11年、国鉄により羽ノ浦〜桑野が開業。同時に阿南鉄道を国有化。羽ノ浦〜古庄は貨物線となるが、戦後まもなく廃止。昭和17年までに桑野〜牟岐まで開通。昭和36年に徳島〜中田を牟岐線に編入。昭和48年、牟岐〜海部が開通して、牟岐線が全通する。

小松島線(廃止)
中田〜小松島。1.9km。昭和60年3月14日かぎりで廃止。牟岐線のところにある、小松島軽便線の牟岐線への編入部分の残存区間。国鉄史上最も短い路線でもあった。かつては小松島から高知や阿波池田行きの急行が走っていたという。

徳島線
佐古〜佃。67.5km。明治32年、徳島鉄道により徳島〜川田開業。明治40年に国有化され、国鉄徳島線となる。大正3年、川田〜阿波池田開通により全通。

阿佐海岸鉄道
平成4年開業の新しい第三セクタ鉄道。海部〜甲浦。8.5km。昭和49年より阿佐東線として工事を開始、レール敷設まで完了しておきながら「日本国有鉄道経営再建特別措置法」いわゆる国鉄再建法により工事を凍結。昭和63年地元21市町村の出資によって設立された阿佐海岸鉄道により建設再開、平成4年の開業にこぎつけた。

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