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放浪記
その無軌道な足跡の数々


1998.12.23 鹿島線 など

ぶらりと出かけた。予定はない。

休日だけあって駅は閑散としている。朝焼けの赤い日差しの中、東へ向かう。落ち穂拾いで近場で乗り損ねている鹿島線でも乗ってみよう。

船橋で鹿島神宮行き電車に乗りかえる。15両の長い編成も11両は成田空港行き。どこかの駅で切り離したりガタガタやっていたようだが、うたた寝していたのでよく覚えていない。再び目が覚めると成田を過ぎたあたり。車窓は長閑な田園風景。収穫を終えた田畑が冬の鈍い日差しの中に広がっている。東京始発の通勤車両でもこんなローカルな場所を走るのだなあ。とかぼーっとしているうち、香取をすぎて単線区間に。鹿島線に分岐したのである。

香取を過ぎると電車はいきなり高架に。あたりは民家もほとんど見えない人気のない土地なのだが、電車は田圃の上の高架をひた走る。わざわざ高架化せずとも用地買収に困るようにも見えんが、とか思っていたら霞ケ浦。なるほど高架橋梁兼用か。潮来は読めんなあ。地形を無視して高架はひたすらまっすぐ霞ケ浦を越える。霞ケ浦を渡りきりあたりに民家が見えたと思ったら終点、鹿島神宮。そのままホームの向かいに止まっていた鹿島臨海鉄道大洗線に吸い込まれる。ありゃ転換シート。

JR鹿島線の香取〜鹿島神宮が昭和45年8月20日に開業している。すこし遅れて、第三セクタの鹿島臨海鉄道の北鹿島〜奥野谷浜の貨物線が昭和45年11月12日に開業している。これらを結ぶ鹿島神宮〜北鹿島はJRの貨物線である。元々、北鹿島〜水戸は国鉄が工事を進めていたのだが国鉄再建法を受けて工事は凍結。それを鹿島臨海鉄道が引継いで、昭和60年3月14日に開業。ようやく香取〜水戸が一本の鉄路でつながったのであった。元々、北鹿島は貨物駅だったが、近所に鹿島アントラーズのグラウンドができたため、平成6年から鹿島サッカースタジアムと名前を変えて試合のある日だけ列車の止まる臨時駅となった。

列車は鹿島神宮を出て間もなく地べたに降りる。はじめはあまり注意していなかったが、妙に跨線橋が多い。もしかして鹿島臨海鉄道には踏み切りが全く無いのかも知れない。

長い名前の駅はそれだけでちょっとした話題になるものだ。昔はあまり阿漕な命名はされておらず、せいぜい「東京競馬場前」とか「岩原スキー場前」とか「宇都宮貨物ターミナル」だった。・・・なんじゃ、「長者ヶ浜潮騒はまなす公園前」って。この駅だけ駅名が普通のサイズの看板に収まりきらず特注サイズ。何だかなあ。ここが長い駅名第2位なのだそうだ。ちなみに現在の長い名前第1位は南阿蘇鉄道「南阿蘇水の生まれる里白水高原」。じゃあ短いほうは、というとこれは「津(TSU)」。尤もローマ字表記だと「能生(NO)」「頴娃(EI)」などの方がさらに短い。以上、何の役にも立たない蘊蓄。

【長い】


大洗。ここが大洗海水浴場なのね、なのね、なのね。

水戸。いつもどおり納豆蕎麦を食す。思い付きで、かつて茨城交通茨城線の起点であったという赤塚駅へ移動するが、駅の建替えで工事中。そこらへんじゅう穴だらけで「廃線後を歩くIII」がまったく宛てにならない。あきらめてスゴスゴと水戸に戻る。妙に傾斜のついて歩きにくい水戸駅前で路線バスを調べて茨城線で比較的大きかったという石塚を通るバスをチェック。駅前のパチンコ屋を横目にそこらへんを散歩して時間をつぶし、バスに乗る。ふと気がついて財布を覗くと小銭が全くない。ありゃ。

茨城交通茨城線。大正15年赤塚〜石塚16.6km、昭和2年石塚〜御前山8.5km開業。モータリゼーションに押され、昭和41年より路線縮小、昭和46年全廃。

バスに揺られること45分。石塚車庫。下車しようにも万券を崩せず途方に暮れていたら、運転手がそこのスーパーで両替してきな、と待っていてくれた。有り難き。

地元の人に聞いたところ、石塚駅跡は停留所前のパチンコ屋だという。廃止からすでに30年近く。用地はあらかた転用されている。おまけに下調べをしていなかったので、どこが廃線跡か全く分からない。そもそもどっちが水戸だ。と、訳も分からず石塚駅前(と未だに看板があった)商店街をウロウロしているうち石塚を抜けて那珂に入り込んでいた。

さらに漂泊。国道123号線を南下する。茨城線は国道の西側の山の中を走っていたと云うので、何度か鬱蒼とした林の中に切り込むがそれらしい跡はさっぱり見つからず。おまけに放し飼いの犬に追われたり。ひー。

小一時間歩きコンビニで地図を立ち読みして、ようやくそれらしい跡を発見する。山の林の中を抜ける道路に転用されている。新興住宅地なのかそこかしこで新築の家が目立つ。廃線跡にありがちな、道路に背を向けた古い家を全く見かけない。いかにも路盤跡らしいなだらかなカーブを描く道をしばらく歩いたのだが、車はほとんど見かけない。本当にこんな場所に駅があったのか?

【転用された道路】


【ここから山を一気に下る】


宅地を抜けると舗装が途切れて砂利道に。このあたりに那珂西駅があったらしいが、痕跡は皆無。というか人気がない。・・・いつしか線路跡は山から平野におり、開けた田畑の真ん中を貫いている。薄暮の中、砂利路の向こうに街の明かりが見える。しばらく進むと廃線後は国道123号に合流している。鉄路はここから那珂川の堤防へと伸びていたというが、ここで日没コールド。初めての土地を夜にうろつく気はないので素直に帰途につく。

なんでも茨城線自体の延伸だとか、水郡線の玉川村への接続だの、真岡鐡道の茂木への接続する計画があったと云う。古いバス路線図に微かに夢の跡が見て取れた。

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