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放浪記
その無軌道な足跡の数々


1998.03.14 蒲原鉄道 乗車および探索

3月13日午後。厭なことがあった。
3月14日未明。なぜか新潟にいた。もちろん目的はない。

この日は磐越西線にSLが走るらしく、車内は三脚がゴロゴロしていて妙に濃い雰囲気が漂う。まぁ、こっちだって似たようなもんだが。
何も考えずにムーンライトえちごに飛び乗ってしまったため(もちろん指定を取った)、どこに行くかを全く考えていなかった。考えてみれば新潟以北にはあまり行きたいところがない。なら「えちご」でなく「ながら」の指定を取ればよかったものだが、まぁ、うだうだ考えてもしょうがない。村上まで行くと行動の選択肢が少なくなるので、新潟か新津で降りるべきだな、と考えたあたりで、車掌が大宮と高崎のアナウンスを間違えてるのを聞いておいおいと突っ込みながら就寝。

翌朝、午前5:06。新潟。まだ真っ暗。カメラを担いだ軍団といっしょに下車。なにも考えず一番近い連絡列車に乗車。新津でカメラ軍団につられてなんとなく下車。再びやってきた列車に乗車。磐越西線で会津若松に向かう。新津まできてようやく蒲原鉄道の存在を思い出した。蒲原鉄道と云えば最近廃止された区間があったはず。それに廃止区間の末端は現役の駅だから帰りの心配がいらないハズだ。放浪の旅のときいつも持ち歩いている資料を引っ掻き回し蒲原鉄道の情報を確認。

蒲原鉄道。大正11年五泉〜村松開業。昭和5年村松〜加茂開業。昭和60年村松〜加茂17.7km廃止。五泉〜村松4.2kmは現存。

午前6:22。五泉で下車。JRのホームから少し離れたところに蒲原鉄道のミニチュアのようなホームがある。始発が動き出すまでホームで待つ。震えながら待つ。日は昇ったが、曇天模様。結構冷える。
「さきほど上り列車がカモシカと接触したため列車が5分ほど遅れています」などと呑気なアナウンスがながれている。そうこうしているところに蒲原鉄道の始発電車がやってきた。磐越西線は非電化なのに蒲原鉄道は電化。ホームの雰囲気は全く逆で、むしろ蒲原鉄道のホームにはSLが滑り込んできそうな雰囲気なのだが。

【蒲原鉄道五泉駅ホームにて 始発の出発を待つキハ61】


4人の客を乗せて列車は走り出す。乗客はみんなそのスジの人間で、車窓をビデオ撮影する人あり、メモをとる人あり、巻尺で車両のサイズを測り出す人あり。巻尺ってのは始めてみたが。
列車は五泉を出てすぐに大きく西に曲がり、あとはおおむね直線で非常に見通しがいい。列車はちょっと揺れるが乗り心地がわるいと云うほどでもない。沿線は思ったよりにぎわっている。5分もすると終点村松駅。列車をおりてホームから降りて線路を踏んで駅舎に向かう。立ち止まり、かつて、つい13年前まで18kmの向こうの加茂駅までつながっていた線路を眺める。見える範囲の設備はいまだ健在で、駅舎の向こうから列車がやってくる気配すらある。運賃を駅員に渡し、村松駅に入る。村松駅は蒲原鉄道株式会社の社屋も兼ねており、待合室も広い。特急が止まってもおかしくない風格の駅舎だ。
駅前で蒲原鉄道のバスを確認するが、時間が折り合わない。時間潰しに村松城址公園に静態保存されているという車両を見に行くとする。ついでに朝飯も喰う時間もあるだろう。

村松駅を出て国道290号線を100mほど進むと無常に断ち切られ、車止めが施された線路がみえる。以前はここに踏み切りがあったと云う。千切れた線路の延長上の道路には継ぎ足された舗装が、そしてその向こうには道路から中途半端な角度でのびる砂利道が見える。それもまもなく住宅地にまぎれしまい、どの小径が路盤跡かよく分からない。迷ってはかなわないので国道に沿って歩くことにする。ところが困ったことに村松町の駅前の道路どれもは三叉路で別の道路に接続していて、どれが国道なのかよく分からなくなってきた。おまけに始めてきた町だ。気がついたら村松城址からはずいぶんと行き過ぎてしまった。おそらくそれと気づかずに鉄道跡を跨いできたハズだ。しかし、それと気づかない程度ならわざわざ戻ることもないだろう、と逆戻りが面倒になり、再び国道と鉄道跡が交差する高松駅跡を目指すことにする。バスの利用も朝飯もウヤムヤになってしまったが、まぁ放浪の旅にはよくあることだ。

あたりから民家が見えなくなって久しい。人気のない国道をテクテクと歩く。車も2、3分ごとにしかやってこない。だんだん標高が高くなってきているようで残雪も目立つようになってきた。考えてみればこのあたりは豪雪地帯だ。これでも少ないと考えるべきなのだろう。

村松駅を出て1時間半。6kmほど進んだあたりで鉄道の路盤跡が国道の下方に見える。高松駅のホーム跡もかろうじて見える。廃線跡の路盤は工事車両道路となっているらしい。雪解け水で道がドロドロでとても歩けそうにないので高松駅ホーム跡には接近できず。ここから加茂市街地に至るまで鉄道跡は国道から見え続ける。あたりは雪で一面覆われているが、高台になっている築堤が延々と連なっているのがわかる。

【高松駅付近から線路跡が田舎道になって続いている】


1kmほど進むと、加茂市に入り、蒲原鉄道の最高標高地点である冬鳥越の峠に差し掛かる。廃線跡はトンネルだが、国道は切り通しを上っていく。歩きでもけっこうしんどい上りだ。鉄道跡は峠のかなり前から高さを稼いでトンネルの直前で国道を鉄橋でオーバークロスしていたらしい。築堤の断面とその上に橋台が見える。このトンネルを超えると冬鳥越スキー場があり、そのスキー場の真ん前に冬鳥越駅があったと云う。

【冬鳥越のトンネル手前の築堤の断面】


スキー場も蒲原鉄道の経営。3月も半ばなのでリフトは動いていなかったが、スノーボート(ボードにあらず)を楽しむ家族連れの嬌声が静かな山々に響いていた。冬鳥越駅は跡形もなく駐車場になっていた。狭い谷底を道路と鉄道とが寄り添うようにして峠を過ぎる。
さらに進むと再び鉄路跡は道路と交差し、七谷の集落に出る。あたりの民家がすべて背中を向けているのがその砂利道が線路跡であることを示している。
交換施設のあった七谷駅。2つのホーム、いまは集落の集会所になっている駅舎。とんでもなくきれいに設備が残っている。あまりにも設備が揃いすぎていてセットのような感じだ。眩暈がする。

【七谷駅跡】


山深い七谷の集落を抜けると、線路跡は山を回り込み大きく北に曲がる。しばらくは断崖に近い河岸のわずかなスペースに張り付いている。国道は加茂川を渡り線路とは反対側を走る。道路と鉄道はお互いそのまま加茂市街に至る。進むと次第にあたりは開けて、川岸にしがみつくようにしていた線路跡の周りにも民家や水田が目立つようになる。川に落ちる心配もなくなったので、このあたりから砂利や枕木、犬釘が残る路盤を歩く。延々と歩く。途中の狭口駅は資材置き場となっていた。ホームにはプレハブの事務所があった。

【枕木の残る線路跡】


【狭口駅跡】


加茂市街地に入ると廃線跡は道路の拡幅工事で消えていた。地図を片手にキョロキョロしながら歩いていたら、地元の人に、なにか探してますか、と声をかけられる。近くに住むという中年の夫婦だった。素直に蒲原鉄道の跡をなぞっています、と答えたら、いろいろ昔話をしてもらえた。冬場は冬鳥越スキー場にいく客でたいそう繁盛したとか、飛び移れるほどのんびりと走っていたとか、カンテツと呼ばれて親しまれていたとか。
東加茂駅は拡幅工事でその跡が消えていた。道路の拡幅区間はあっと云う間に終わり、竹林の中に再び路盤跡があらわれた。このあたりまで来るとすでに付近は市街地なのだが、路盤は街の外れを高架で続いている。ガーター橋はすでに外されており、路盤は寸断されておりまともに歩くことはできないが。

【陣ヶ峰駅跡】


陣ヶ峰駅跡は高架の上にホームの跡が残っている。それに連なる階段も健在。鉄道廃線跡を歩くIIによるとホームのすぐ向こうで道路と信越本線をまとめてオーバークロスしていたというが、すでに鉄橋は撤去されていた。

ようやく加茂駅に近づく。18kmを4時間半かかった。駅前の近くでは何かの市なのか露天が軒を連ねていた。朝からロクな食事を摂っていなかったので、アラレを1袋かった。喰いはじめて気がついたが、これがとんでもないボリュームで並みの袋菓子3袋分はあって帰りの電車で喰い切れず、翌日丸一日かけてようやく喰いきれたと云う。ま、旨かったんだけどね。

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