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時計屋の娘


宿や酒場、雑貨屋などが立ち並ぶ割とにぎやかな通りをほんのすこし歩くとそこはもううっそうとした森だ。
山と海に挟まれているために、この町には平地らしい平地はない。海岸の港から大通りを抜けるとすぐに山にぶつかる。その狭い土地にかなりの数の家が乱立しているものだから大通りの辺りはかなり混雑している。大通りならともかく、一歩脇道にそれるとそこはほとんど迷路のよう入り組んでいる。土地の者でなければあっさり方向を見失う。
そんなたてこんでいて猥雑な、ある一つの脇道からさらに薄暗いひと一人通るのやっとという小さな路地に入るとそこには何やら得体の知れぬ店や黒いテントがいくつか並んでいる。うさんくさい占い師、異臭をはなつ薬草や干物を軒先にぶら下げた薬草屋、遥か彼方の名も知れぬ異国の商品を扱う店。路地は異様な雰囲気に包まれ、昼だというのに陰鬱な感じがし、ここに足を踏み込むと一瞬太陽が翳ったような、背筋に何か冷たいものが触れたような気さえする。夜になると何かがうろつきまわる、という噂もある。
その店はその路地にあった。
その名を「時計堂」という。読んでその名のごとしである。この町だた一軒の時計屋であり、時計はもとより、主人が恐ろしく器用な男で歯車やゼンマイの使われているものなら何でも治してしまうという話だ。どうしてこんないりくんだ、目に付きにくい所に店を出しているのかと云えば、この町では時計を必要としている人間がほとんどいないためそんなに繁盛している訳でもなかったためでもあったが、やはりなんと云ってもその時計堂の主人の頑固さのためであろう。「時計堂」がここに出来たのはもう八〇年も前のことだが、その頃はまだ大通りなるものは存在していなかったからだという。
その路地には小さい店が多いのだが、時計堂はとりわけ小さめ店だ。扉に掛けられている毛皮をくぐって中に入ると、そこには大きな柱時計がゆっくりと時をつむいでいるだけであとは何もない。狭い店内を抜けると奥にさらに狭い工房があるだけだ。主人はそこに一人で暮らしていた。彼は客がいないときはいつも工房で何か組み立てていた。
彼の歳を知る者はいなかった、彼の名を知る者もいなかった。身寄りがいるかさえ誰も知らなかった。誰も彼が何者か知らなかった。彼は人知れず工房で日夜働く。

その日サーは家の留守番をしていた。両親は隣の町まで仕事をしに出掛けていて、あと一〇日は戻らない。何かと忙しいようで両親が二人とも家にいることは滅多にない。
「あ〜あ、退屈だわ」
サーはこの夏に一六才になる。その割に背は小さい。女の子であることを差し引いてもずいぶんと小さい。童顔も手伝って四、五才幼く見られるのは毎度のことである。顔つきは童顔の一言に尽きる。屈託のない笑みを絶えず顔に浮かべている。肩にかかる長めの栗毛色の髪は無造作にながれるままにしてある。だらしないわけではないのだが、何とも無頓着なものである。幼く見られても然るべきであろう。
家は「時計堂」と背中合わせになっているのだが、道がくねくねと曲がっているため、時計堂にでるまでは結構な距離になる。窓を覗けばすぐそばに工房が見えるのだが。 サーは裏に見える建物が「時計堂」であることを知っているし、そういったものが嫌いなのでもない。ただあのいかがわしい空気が嫌で近寄らないことにしているのである。
「退屈」
今日何回目かのため息をついてサーは呟いた。留守番、と云っても一日中黙って家の中にいなければならないわけではないが、本当にすることがないのであった。普段はいつも近くの「太陽の翼」亭という小さな酒場で働いているのだが、昨日から酒場の親父さんが怪我で寝込んでしまい休みになってしまっていた。一人で留守番をしていればそんなには散らからないし、食事も簡単に済む。洗濯物もそうは出ない。家事はいつもの半分もあれはラクに片付く。従って暇は増える。
「久しぶりのお休みなのにこんなに持て余すなんてねぇ」
昼寝をするにしたって一日中ぶっ通しで寝れる筈もない。第一女の子らしからぬ行為である。誰か友達を誘ってどこかに遊びに行こうにも、今日に限ってみんな用事を抱えていた。一人で出歩くよりなら家にいるほうがまだましというものだ。
「はぁー… いい天気なんだけどなぁ…」
そしてサーは本日のため息の回数をまた増やした。家の中にいるのも不健康だし、かといって一人で出掛けるのもつまらないないし…と考えながら、いつしかサーは家の入口の扉に椅子を置いてそこに腰掛けていた。何をするでもなく、陽射しのなかでまどろむだけ。サーは我ながらしょうがないとは思いながらもそうしていた。なんだかんだ云っても、陽射しの中でまどろむのはやっぱり気持ちがよかった。
路地に干してある洗濯物が潮風にはためき、影がはためいた。奥が袋小路になっているサーの家の前の道をたまに行き交う人はみんなここらの家の人々だ。こんな行き止まりの小路にやってくる物好きはいない。
「ンン……ッ」
サーは我知らず手を絡め合わせて頭上に持ち上げ、思いっきり伸び上がっている自分に気付いた。寝てたのかしら? いつの間にか眠りに落ちていたらしい。
(それほど長い時間じゃないと思ったけど)
まともに日を浴びていた腕や顔がヒリヒリした。日焼けだ。
すでに日は傾いていた。影が長くなっていた。
「何してんのかしら、あたし…あら?」
ため息をついて、サーは呟いた。椅子を片付けようとして椅子に手を掛けたをときサーの目にそれが入った。
少女が歩いていた。見たところサーより少し年上のようであった。穏やかで物静かな表情をしていた。しかし見慣れぬ顔だ。少なくてもサーの知らない顔であった。彼女はどこか遠くをぼんやりと見ているようで目が空ろだった。彼女は真っ白で、見慣れぬ服を着ていた。いや、服というよりはマントのようだった。大きな白い布を体に巻き付けているような感じがした。潮風に白い服がなびく。
(へんねぇ……)
この先は崖になっていて、行き止まりである。無理矢理進めば一応は森に入れるが、そんな面倒なことしなくても立派な街道が町外れにある。もっともごくまれにこの先の袋小路の崖から森にむりやり突入する奇特な旅人もいるにはいるのだが…。
しかし彼女は軽装で、とても旅人には見えない。それによく見れば足元が妙におぼつかない。地に足がついていない、何とも危なっかしい歩き方であった。
(まさかお酒飲んでんじゃない…よね)
彼女はゆっくりとおぼつかぬ足取りでサーの前を横切っていく。やっぱりおかしいわ、と思ってサーは声を掛けることにした。
「あのぉ、あなた、この先行き止まりよ」
はじめは反応しなかったが、その声が自分にむけられたものと分かると彼女は立ち止まり、そしてゆっくりとサーの方に顔を向けた。整った顔だけに空ろな目がこわい。
「分かる? この先は何もないの。行き止まりよ」
彼女は何も云わなかった。表情すら変えなかった。もしかしてあたし余計なことしたのかなぁ? サーは不安に駆られた。もしかしてこの娘は奥のルクスおばさんの親戚とかで遊びにきたのだとか……。
突然、彼女は喋った。気のせいか妙にかすれた声だった。
「わ…私は誰?」

暮れて夜。
サーの家の晩餐は思わぬ来訪者でにぎやかになっていた。昼に話しかけた少女がいるのである。いい加減一人の食事に飽きていたし、それに自分と同じ年ごろ、何より女の子同士という気楽さもあってサーはこの娘を家に招きいれたのである。ようはあのまま彼女を知らん顔して放っておけるほどサーは悪人ではなかったということだ。
彼女はしばらくほとんど口をきかなかった。ただサーを見つめているだけだった。それでも食事をして少しは打ち解けてくれたのかポツリポツリと話すようになった。それにしてもかなりの小食だった。体はサーより大きいのにサーの三分の一ほども食べていなかった。
(もしかして、あたしの料理ってそんなに美味しくないのかなぁ、そりゃ自慢出来るほどうまいとは思ってなかったけどね)
食事を済ませ、後片付けをし、ランプの火を消す頃には彼女はかなり喋るようになってくれた。サーはもともとお喋りなので彼女のことを聞き出そうと色々と話した。この町のこと、大通りに並ぶ宿や酒場のこと、その一つであるサーが働いている「太陽の翼」亭のこと、町外れの港のこと、その他云々かんぬん……
しかし全ては無駄骨だった。サーの口が疲れただけだった。彼女はきれいに何も憶えていなかった。辛うじて話せるだけのような状態だった。
「ねぇ、ほん…っとに何も思い出せないの?」
「ええ…」
「名前も? 年も? 住んでいたところも?」
「はい…、ごめんなさい…」
「謝ってもらっても困るんだけどぉ… でも困ったわねぇ、名前も分からないなんて。あなた、なんて呼びにくいし。……そうだわ、こうしましょ。あなたが名前を思い出すまであたしが名前付けたげる」
彼女はどうしたものか決めかねるような目つきでサーを見ている。当然だ。一方そんなことはおかまいなしにサーが続ける。気楽なものである。
「例えばアムってどう?」
「アム?」 彼女は呟いた。
「どお?」
「いいわ、アム、ね」 サーに押し切られた格好になってしまった。
「ふわあ……。さて、もう遅いわ、寝ましょ」
あくびをして、サーは云った。サーがランプの火を吹き消すと部屋は真っ暗になった。窓の外で虫の声がしている。
「おやすみ」

翌朝は早かった。
出会ったばかりでおたがい気を使ったせいもあろうが、二人ともかなり早く起きた。日の出から間もなくというからサーにしてみればいつもより二時間は早く起きたことになる。外はまだ濃い朝霧に包まれて、世界は白乳色に染まっていた。
「ふあ? アム? もう起きたの?」
先に起きていたはアムの方だった。サーが起きたとき、アムはベットの上に体を起こして座っていた。穏やかな顔つきでどこを見るでもなく何か考えるかのようにしてじっとしていた。それはほの暗い部屋の中で神々しい彫像のようでもあった。
「あ、サー、おはよう」
アムはとなりのサーに気付くと、穏やかに云った。サーはベットの上で軽く背伸びをすると、ベットから飛び跳ねて器用に音もなく床におりたった。そしてドアまで歩いていってドアを開けた。冷たい外気が流れ込んできた。
「うわぁ、冷たいっ!」
ボォー……ン ボォー……ン ボォー……ン
そのとき家の裏手の方から何かが聞こえてきた。ゆったりとして優しげな音だった。
「なに、今の音?」 アムが訊いた。
まだサーはドアのところで外を見ていた。そのまま振り返りもしないで答えた。
「今の音? ああ、あの音ね。あれは時計の音よ」
「とけい?」
「あ、そっか、時計って憶えてないか。時計は、今が朝か昼か夜かきちんと教えてくれる機械のことよ。あたしの家のすぐ裏に時計のお店があって、そこにこの町で一番大きい時計があるの。その時計は時報で時間を報せてくれるの。今のは多分夜明けの鐘の音ね。だけど…それがどうしたの?」
アムは顔をうつむけ、片手を顔にあてた。そしてそのまま動かなくなった。その姿は何か思い出そうとしているように見えた。
「アム?」 返事がなかったのでサーは振り返った。そしてベットまで戻ってきてアムを下から覗き上げた。
アムの目は開いてはいたがサーを見てはいなかった。何もその目に映していなかった。アムは微動だにしない。
「ちょっと、アム、どうしたの?」 サーはアムの肩を叩いた。
「え、あ、今…何か…が…」
それがアムを呪縛から解き放つ鍵であったかのように、ふいにアムは我にかえった。
「どうしたの、きゅうに考え込んだりして?」
「今、何かが、何かが頭のなかに見えたような気がするの。なんかひどく懐かしくて、確かにいつかどこかで見たことのある景色が。ずうっと昔に、確かにどこかで見たような… あれは……?」
「景色? それって何か思い出す手がかりにならない?」
サーが嬉々として云った。
「見たということは分かるんだけど、どんな景色かまではよく分からなかったの。ただすごく懐かしい風景だったような…… でも…、やっぱり思い出せない」
「ふうーん… 懐かしい景色、ねぇ」 サーが窓の鎧戸を開けながら、明らかに落胆した声で云った。何もないよりましとはいえ、漠然としすぎていて手掛りとは云い難い。
しかしサーはすぐに気を取り直して云った。
「大丈夫よ、きっとそのうち何か思い出すわよ。焦っても仕方ないしね。さて、と、そろそろ朝ご飯の準備するわね。あたし水汲みに行ってくるね」
そしてサーは水瓶をつかむと朝霧の中に消えていった。サーが出ていったあと、アムはベットから下りた。そしてアムは入口とは反対側の窓の方へと歩いていった。「時計堂」の工房に面した窓である。そして窓の外を見ながら再び何かを考えだした。
「あれは一体……」

アムはアムネジアのアム。

二人でワイワイやりながら朝食をすまし、後片付けも終わるころには通りの霧もすっかり晴れ、青空が今日もいい天気であることを告げていた。港の果てからは海鳥の声。

「時計の音??」 サーが間の抜けた声をあげた。
すでに日は高い。二人でいると時の進みが速かった。サーは洗濯をし、家の前に張ったロープに洗濯物をかけているところだった。そのかたわらではアムは家の戸口の所で椅子に腰掛けていた。昨日サーがしていたようにだ。
「ええ」 アムが云った。
「あれから考えてみたんだけど、何かが見えたのはあの時計の音のせいだと思うの。あの音を聞いて何か不思議な気分になったの」
「もしかしてアムって時計のあるところに暮らしてたのかしら? 時計の音で何か思い出すなんて。でも、ここらへんに音の出る時計なんてそんなにないはずだけど。確か大通りの酒場の「風の民」亭に一つ、港の役場に一つ、町外れの教会に一つ、あとはあたしの家の裏の「時計堂」くらい…かな。まだ他にもあったはずだけど、よく分かんない」
サーは洗濯物を干しながら云った。やがて干し終えるとアムの方を向いて云った。
「何ならかたっぱしに時計のあるところを全部まわってみる?」
ボォー……ン ボォー……ン ボォー……ン
そのとき、「時計堂」から時計の音が聞こえてきた。もう正午だった。
その音を聞いてアムは再びうつむきジッと考え込みはじめた。サーが不安げにアムを見守った。しばらくしてアムは顔を上げた。
「アム、何が…」 サーが云い終わらぬ内にアムが云った。
「崖よ、崖みたいなものが見えたの。その下の暗い所から上を見上げたような… それで誰かがやってきて私を連れていくの」
「連れていくって……? それってまるでひとさらいじゃないの」
「違うわ、そんな感じじゃなかった。男の人だったわ。そうだわ、間違いないわ。私は確かにその崖の下にいたのよ。それに昨日だってサーに話しかけらるまで、崖にいこうと思ってたんだもの」
「?」 サーは面食らってアムの云うことを聞いていた。昨日からすると考えられぬほどアムが一気に喋ったからかもしれない。 「ねぇ、サー。この町で崖になってるところを教えてくれる? 行ってみたいの」
「え、あ、うん、いいわよ。どうせやることもないから、あたしも一緒に行くから」

「この町は東側に海があって、西側にすぐ山があるから、一口に崖と云ってもやたらあるわよ」
昼食を摂りながらサーは云った。
「でも、昨日あたしがアムを見付けたときのアムの格好からして、そんなにここから遠いところじゃないと思うんだけど。それでもとりあえず思いついただけでも二つ、三つあるけどね。一番大きいのはあたしの家の前の通りをつきあたったところにあるのかな。高さは大通りの二階建ての酒場よりあるはずよ」
サーの家の前の通りを進むとつきあたりにあるのはこのあたりで一番大きな崖である。そこには冷たいきれいな清水が湧いていて、この一帯の住民の生活の水となっている。
食事がすむと、サーは後片付けもロクにしないでアムの手を引いて家を飛び出した。というのも、サーはこのところ留守番続きで外を友達とのんびりと遊び歩くことが出来なかったので、理由はどうあれ外を出歩きたがっていたのだった。もともと外を出歩くのが好きな方だから、要はアムにかこつけて外に出掛けたという訳である。
外はいい天気だった。雨期を明けたばかりの強烈な陽射しが肌に快い。
さて、サーの云った崖はサーの家と目と鼻の先なのだが、複雑怪奇に入りくんだ路地のおかげでサーの家からですら迷いかねない。それでもサーがアムを引きずって崖下に着くまで大した時間はかからなかったのだが。二人が突き当たった先の崖では、複雑にうねる地層が顔を覗かせていた。崖はかなり高い。この崖に登れば、この街の全容を一望出来るほどの高さはある。この北向きの崖の下には日の光がほとんど届かない。そのため、いつもひんやりと涼しい。かたわらに湧いている泉のため空気はいつも湿り気を帯びている。そこかしこにこびりつくようにして生えている苔の胞子の匂いが澱み、鼻につく。
(そういえばここも久しぶり。小さい頃はよくここで遊んだものだけどなぁ)
酒場で働くようになった一年ほど前から、サーはここに久しくここに来たことがなかった。しかしこの永劫の時をかけて形づくらたこの崖は、そんなサーとは全く独立して存在し続け、そこにひろがるのはやはり小さい頃遊んだあの崖だった。
「着いたわよ、アム」 サーはアムを見た。
「…………」 アムは何も云わずにジッと崖を見上げている。サーの言葉など聞こえていないかのようだ。そんなアムをそのままにして、サーは辺りを見回した。
付近の子供達の遊び場にでもなっているのか、湿った大地には無数の足跡が残されている。その中には新しい大きめの足跡も残されていた。どう見ても大人のものだ。
(誰かしら、こんなところに来るなんて)
サーが顔を上げてみると、さっきまでは気がつかなったが、崖にはいろいろといじられた跡があった。子供の遊び場になっているから、崖を掘りかえしたりするのは珍しくもないことなのだが、どうもそうでもないようだ。ある距離おきに拳ほどの穴が上下左右に格子状に規則正しく穿たれていた。それも計ったかのような正確さでだ。子供のお遊びにしては手がこみすぎている。そもそもその穴はざっと見ただけで三百以上もあるのだ。
この崖は昔から奇妙なものが見つかるところだった。骨や貝殻などの化石に混じって、稀に細かく細工された硬い錆びない金属片などが見つかることがある、との話だ。もっともサーの酒場にくる客からの受け売りではあるが。ところで、かんじんのアムはと云えば、依然、崖の断面の地層に見入ったままだ。サーが少しくらい呼んでもうわの空だ。我、心ここに在らず、といった様子だ。
「ここに…」 しばらくしてから、不意に、ちょうどサーがアムから少し離れて、蜂の巣のような穴だらけの崖の壁面を覗き込んだときに、アムが口を開いた。サーは穴の一つに手をついたまま振り返った。
「ここに誰かが私を…」 ほとんど夢を見ているかのような虚ろな声。その目は焦点を失い、身体はゆらゆらと揺れ、ともするとその場にうずくまってしまいそうだった。
「アム!」 サーが大声でアムを呼んだ。
サーの叫び声に驚いてか、やっとアムは正気を取り戻した。アムはそれまで自分が何をしていたのかよく分からずにキョトンとしていた。時計の音を聞いて考え込んだときに似ていた。それにしても、記憶喪失だからというわけでもなかろうが、一日何回も茫然自失に陥るとは、もともとアムはそういうところがあるのだろうか。実際アムはいつもどこか遠くを見てぼおっとしていることが多いようだった。
「あら、私…。どうしたの、サー、大声出して」
「どうしてって…、アムが、どこか遠くの方へ、あたしの手の届かないような遠いところへ行っちゃうような気がして……、だから…」
「え? どうして?」
「だって……」
サーの言葉をさえぎるようにして、唐突に、崖の上の森から鳥が群れを成して一斉に飛び立った。その音にサーは身を強ばらせた。鳥たちは続々と、空を埋め尽くさんばかりの勢いで飛び立った。身も竦まんばかりのその羽音に混じって、中にはカン高い奇声を発する鳥もいて、辺りは騒然となった。鳥たちの影は空を覆い隠し、俄に夜が来たかのようですらあった。
バサバサバサバサ………
サーが何か叫んだ。その叫び声すら羽音にかきけされほとんど声にならない。二人の頭上を、多くの鳥が、その集合体がさらに大きな一つの生き物となって飛んでいく。多種多様の鳥たちが青空を鳥色に染め上げて飛んでいく。それはどこに潜んでいたのか疑わしくなるほどのおびただしい数であった。幾瞬の時が流れたのであろうか? やがて耳朶を聾せんばかりの喧騒も、遂には途切れた。信じ難いほどの多くの鳥はその姿を何処にか隠し去り、あたりは元通り静かになった。時折崖の上の森から木立のざわめきだけが聞こえていた。サーとアムは我知らず顔を見合わせ、お互い首をかしげた。そして二人はほとんど同時にボソリと云った。
「アム、いまの、なに?」
「サー、いまの、なに?」

崖は大通りに近かったので、当然、この鳥の群れは大通りにも現われた。突如として山の方から湧きだした鳥は連なって、あるものは海の彼方へ、あるものは海岸線ぞいに南の方へと消え去ったのだった。
時は昼下がり、日中で一番暑くなる頃だった。暑さを避けるため、外に出ている者はそう多くはなかった。外にいるのは疲れを知らずに遊び回る子供達くらいのものだった。そんな訳でその鳥の大群は、結局、ほとんど人の目に晒されることなく霧散したのであった。
もちろんそれに気付かぬ者が全くいなかった訳でもなかった。たまたま空を見上げた者は、その異様な鳥の集団を目撃した。しかし、皆、自分の抱えた仕事に忙しく、そんな鳥たちの狂乱に付き合うほど暇でなかった。畏怖、感嘆の声を上げたものがいたとしても、それは興味本意の声であって、原因までかんぐるようなことはしなかった。そしてそれはあっさりと、忘れ去られた。
サーの家の前の路地を歩いていたある男も、その鳥たちを見た。しかし、すぐに彼も興味を失い、再び崖に向かって歩みだした。

崖の下には、当初の目的を忘れて突っ立っている少女が二人いた。
「あれ? 何しようとしてんだっけ?」 サーが云った。
完全に今の一幕に二人は圧倒されてしまい、すぐには何も出来ない、というかする気が失せてしまっていた。大体ここに何をしにきたのかすらよく分からなくなってしまっていた。毒気をぬかれたと云えばちょうどいいかも知れない。
「あ、そうだ。ね、アム、何か思い出したんじゃなかったの?」
「そうだったかしら? いきなり鳥があんなに飛び立ったから、驚いて」
アムは崖の上を振り仰ぎ、答えた。もはや青い空には影一つない。
「でも、ここってすごく懐かしいわ。ずっと昔から私はここにいたの、ずっと、ずっと昔から」
「いた? 来たんじゃなくて? それってどういう…こと?」
そのとき今度は二人の横手で、清水が音を立てて吹き上げた。普段はきれいな泉の水は濁り、泥や砂を巻き上げ、二人の腰ほどの高さまで、盛大に吹き上がった。先程の鳥のときほど長くはその出来事は続かなかった。何事かと首をかしげた二人の見ている前で、泥流と化した噴水はおさまった。それきり泉は枯れてしまった。そして静寂がやってきた。嵐の前の静けさのような、空気の張りつめた静寂だった。
「サー、何か気味が悪いわ。帰りましょう」 アムが乾いた声で云った。
「どうもそうしたほうが利口みたいね。胸騒ぎがするの」
アムの記憶を復活させるという目論見は、突発的自然のいたずらにより挫かれた。二人は揃って崖に背を向け、帰路につくことになった。崖の下の日影から出ると、暗さに慣れた目に陽の光が眩しくて、視界が真っ白になって、世界が滲んだ。かろうじて、誰かが二人の方へと歩いて来るのが見えた。明るさに慣れぬ目でも、それが男だということぐらいは分かった。向こうにはこっちが見ているのか、いないのか、黙々と歩いている。サーの視界が正常になる頃には、その男は目鼻が分かるほどの距離にまで来ていた。男は大きな煤けた灰色の袋を背負い、その回りには何に使うのか分からないが、奇怪な形をした道具を多々ぶらさげていた。こざっぱりとしてはいるが、うだつのあがらぬ四〇ほどの小男だった。そしてそれはサーの知っている顔だった。何故なら男はサーの家の裏に住む「時計堂」の主人であったのだ。
そうこうするうち、男はもう息遺いが聞こえるほどの所にきていた。男はそこまで来ると、おもむろに顔を上げ、立ち止まった。そして、眉間にシワを寄せて二人を凝視した。いや、正確には二人の内の一人、アムを、だ。 サーは怪訝な顔をしながら、男の脇を擦れ違おうとした。
ところがアムは男の少し手前で立ち止まり、男の方の見た。
アムがついてこないのでサーも仕方なく立ち止まり、後の二人の方を見た。サーはそのとき初めて気が付いた。この二人、「時計堂」の主人とアム、似ても似つかぬと思っていたのだが、妙に似ていた。と云っても、顔立ちが似てるとか、からだつきが似てるとかいうのではない。顔立ちで似ているところは、その部品の数ぐらいのもので、とうてい共通点は見出だせないし、からだつきもずいぶん違う。男の方は小柄なサーよりまだ小さく、アムの胸ほどまでしかなくて、アムの方を見るのに窮屈そうに顔を上げなければならぬようだった。それは路上で行き違う他人であった。しかしそれでもなお二人は似ていた。その人間が回りに醸しだすその人特有の雰囲気のようなものが似ている、と云えばいいだろうか。そうやって立ちつくす二人はまるで父と娘といった具合であった。しかしそう思ってみると、もはや二人はたまたま道の上で対面した他人には見えなかった。父と娘という例えがあまりにも的確だったので、これに勝る形容が何も思いつかないほどであった。
「時計堂」の主人とアムは、たっぷり一呼吸分の間、対峙した。そして男が云った。
「なんじゃ、しばらく姿を見んと思うたらこんなところにおったか」
男の声はかくしゃくとしたもので、張りのある、姿に似合わぬ若々しい声だった。実はこの男は見かけより若いのかもしれない。
面食らったのはサーだ。思いがけないところからアムの知り合いが出てきたのだ。わざわざ崖まで赴いたのも全くの無駄足という訳ではなさそうだった。
「おじさん、この娘知ってるの?」 おそるおそるサーが訊いた。この男が恐いのではない、彼の住んでいるあの界隈の印象が思い出されたのだ。
「おや? なにかな娘さん?」 男はサーにやっと気付いたようだった。しかしその様子を隠すでもなくしゃあしゃあと答えた。
「知り合いなの、この娘の?」 続けてサーが訊いた。
「知り合いか、じゃと? 知り合いも何もこの娘はワシの娘みたいなものじゃよ。四、五日前から見えなくなったものでどうしたものか思案していたところじゃ。全く記憶も怪しいうちにフラフラと出歩きおって」男の最後の一言は、サーにはどういうことなのか計りかねた。
「じゃ、アムの身内なの、「時計堂」のおじさん」
「や、ワシを知っておるのか。ウム、どこかで見たと思うたら、裏の商い屋の娘か。なるほどな」
彼はおもむろに腕を組むと、芝居がかった仕草でもって頷いた。
「ところで娘さんよ、今しがた、アムとかゆうたな? もしやこの娘の名前か?」
「うん。名前も、何も憶えてないっていうから、臨時につけてあげたの」
(余計なお世話かな、やっぱし?) サーはひそかに思った。
「ウーム、気に入った。そのアムとやらいう名前貰うぞ」
「えぇっ?」 サーがすっ頓狂な声をあげた。適当に付けておいた名前を貰う、などという、非常識極まりないことを平気で云ってのけたのだ。冗談の口調ではない。
「な、名前貰うって?」
「何をそう驚いとるか。おまえさんにこの娘の名付親になってもらうだけじゃよ」
「それじゃまるでアム、じゃない、この娘に名前がなかったみたいじゃないの」
「ほう、なかなかいい洞察力をしとるな、その……」 男はそこまで云って急に言葉を切った。そして顔をしかめて、辺りを探るような目つきで見回した。
「あの、何か?」 不意に黙り込んだ男にサーは訊いた。
「ちょいと静かにしてくれんかの、娘さんよ。何か聞こえんか?」
「別に何も聞こえないけど……」
「何? 聞こえる。何なの?」 それまで黙って佇んでいたアムが云った。
………………
依然としてサーの耳には何の物音も届いてはこない。強いて聞こえるものと云えば、すぐ近くの森で騒めく木々の音くらいのものだ。鳥たちのいない森からはさえずり一つ聞こえはしない。三人は三者三様に聞耳をたてていた。そしてついにサーにもそれが聞こえた。地の底より響きわたる、低いはっきりしない、陰欝な地鳴りが、微かに聞こえたのだった。サーはこの音の正体を訝しみ、残る二人に尋ねようとした。ところがその刹那、世界が弾け、揺れた。
サーは驚愕の悲鳴をあげながら、足元をすくわれて倒れこんだ。

地震。それもかなり大きい。

地震はこの街に少なからず傷跡を残した。倒壊したり、歪んでしまった家も多かった。酒場では酒樽が倒れたり、割れたりで大騒ぎだった。厨房で火を出した店もあった。町中は地震に慣れぬ人々が逃げまどい、右往左往し、ひどいのになると世界の最後が来たのだ、などと騒ぎたてるのも出てきて、大混乱になった。幸い死人、怪我人はほとんど無く、津波もなかった。

サーが目前に冷え冷えとした大地があることに気付いた頃には、とうに地震は過ぎ去っていた。サーは生まれて始めて地震というものを体験した。このあたりでは、地震というものは珍しく、最近二十年は微震すらなかった。どれほど長い間、地震が続いていたものか分からなかった。ぶざまに打ちのめされ、引っ繰り返ったサーはよろつきながら立ち上がった。しかし地震のショックで膝が笑い、あやうくまた倒れそうになった。
アムと男は地べたにうつぶせになっていた。
やがて男がブツブツを文句を云いながら起き上がった。
「全く、天災は厄災じゃ、突然やってきおってからに。しかし、久しぶりのでかい地震だったのう」
「お、おじさん、今の…」 興奮まだ醒めやらぬサーの声はうわずり、もともと高い声は裏返り、云ったサー自身が驚く始末であった。
「地震じゃよ。なぁに、ただ大地が揺れるだけじゃ」 男は地震など意に介さぬようでけろりとしたものである。
「さて、そのような大地の身震いなどワシの知ったことではないわ」
そう云って男は体から埃を払い落とした。
ギギギギギ……
耳障りな音がした。硬いものどうしが擦れあうような不快な軋み音だった。その時になってやっとアムがゆっくりと、そしてやけにぎこちなく立ち上がった。
「いまの、なにかから」 アムが云った。アムはまともでなくなっていた。どこかに異常をきたしていた。前々から擦れた声ではあったのだが、どうしたわけか、アムの声はもはや聞き取れないほどの掠れ声であった。おまけに言葉もろれつが回らないようで、ともすると何を云ってるのか全く分からなくなる。それに四肢をときおり痙攣したかのようにばたつかせている。先程から聞こえ出した軋み音は、一段と大きくなり、ガリガリとなにかひっかいているような音も聞こえる。それはどう見てもアムから発せられる音に間違いなかった。
「や、今の地震で壊れおったか? アムや?」 男がアムに問いかけた。
「マスゥター、わらしぃは壊れれ…なあぁぁい」
三人から少し離れた崖の上で木立が揺れた。今の地震で地盤が弛んだのだ。三人の頭上で崖の一部が、見えざる手でえぐりとられでもしたかのようにして音もなく崩れた。人の頭ほどの大きさの岩石がいくつか放物線を描いて落下していく。その落下点には三人がいた。
「ちょっと、アム、どうしたの。おじさんアムが、アムが」
アムを人間扱いしない不可解な男の言動にたまりかねてサーが悲痛な声で云った。
「機械人形じゃ」
その途端、意味不明の声と思えるものをたてながら、アムがサーと男を突き飛ばした。二人は後退りして、尻もちをついた。アムが糸の切れたあやつり人形のようにして、二人の間に崩れおちた。そこへ落石が落ちてきた。落石は倒れているアムの左肩の辺りを直撃した。サーは目を覆った。
破壊音がしてアムの腕は分断された。その傷口からはいかなる体液も流れ出してはこない。傷口には微細な歯車やゼンマイやカムや針金が覗いていた。
ガガガガ…………
アムの体から聞こえていた軋み音はやがて聞こえなくなり、そしてアムはピクリとも動かなくなった。

「時計堂」の店内は昼間だというのに薄暗く、常にランプが灯っている。工房の仕事机の上には壊れて動かなくなったアムが横たわっていた。服がわりの白いマントを引き剥がすと、そこにはおびただしい数の銅貨ほどの歯車やカムなどが、中には砂粒のような小さい部品もあったが、機械油に濡れて、それ自身の黄金律に従いつつ、相互に綿密に作用しあいながら動いていた。いや、いたのだったというべきか。いまやその機能を失ったアムの体は、骸のようであり、それだけに生々しく、おぞましくもあったが、同時に滑稽でもあった。男は、「時計堂」の主人は、仕事机に向かい、アムの内部の部品を一つ一つ丁寧に調べていた。工房の角には所在なげにサーが床板にじかに座りこんでいた。
ランプの油脂のはぜる音。
男は恐ろしく手際よくアムの体を調べては、手を加えていく。男がアムをこの「時計堂」に運び込んでから、半日も過ぎた頃、外はすでに暗くなっていたが、ようやく男は一段落ついたのか、誰に云うでもなく云った。
「ワシは物心つく頃から機械油と歯車にかこまれて暮らしてきたものだから、ジイさんが死んでこの店を継ぐ頃には、いっぱしの職人並の腕になっておった。まだ十にもならぬ頃の話じゃからもう三十年も昔の話か」
男はサーに向かって話しているのではなかった。おそらく誰に向かって話しているのでもなかったのだろう。男の声は虚空に吸い込まれていく。
「ジイさんはかなりの腕の職人でな、この街に越してくる以前にはどこぞの王宮のおかかえ職人だったらしいが。その血を引き継いだのか、ワシも機械いじりが好きでな、そのうち時計ごときでは満足できんようになったのじゃ。こんなちっぽけな店じゃからな、客などほとんどおらのうて毎日ヒマで仕方なかったせいじゃが。とまれ、そんなわけで時計以外にも色々と作ってみたものじゃ。ワシのジイさんが編み出したとんでもない数の仕掛けや方法を引き継いで、ワシはありとあらゆる機械を造ろうとしてきた」
ランプの中の炎がユラリと揺らぎ、室内の影がたなびいた。
「とりあえずはじめは、本業であるところの時計を造った。それに手を加え、時報式の振り子時計を造った。ほれ、そこにあるのが第一号機じゃ。確か十一のときにこさえたものじゃ」
そう云って工房と店をつなぐ通路にある大きな振り子時計を顎でしゃくった。男はそれから現在に至るまでに制作した機械の数々を語った。もっともサーに理解出来たのはせいぜいオルゴールと時計の類いだけで、残りの八割方はサーの理解の遥かに及ばぬところであったが。かろうじてその根底に高度な技術があるのは分かったが。
「ワシは考えた。何も歯車で構築されるものが機械である必要などないのではないか、と。ならばひとつ生物を模してみようと考えたのじゃ。はじめは粗末な形態模写しかできん武骨なガラクタだったが、改良を加えるうち動きも滑らかになり、遂には実物と見まちごうほどのものになった。ジイさんの開発した装置を使ったおかげで、そいつはあたかもそのうちにある一つの秩序を持っているように振る舞うようになり、もはや誰もそれを機械と疑わんようになった。
「動きの次は声じゃ。発声の原理など簡単なものだからな。人間ですら、ある特有の格好をした管の中にある速度の風を送り込んでいるだけにすぎぬからの。これに細工をしてやって、簡単な制御機械を追加してやると、鳥のさえずり、虫の音、猛禽の咆哮ぐらいは軽くこなせるようになった。虫たちの形態模写機械、鳥の模型機械、犬猫の機械人形、いろいろ造った。どこかに行ってしまったものもあるな。人の目に触れながらそれと分からずに街か森を徘徊しとるのがおるかもしれんて。
「しかし、ワシの努力とジイさんの技術を以てしても、再現できぬものがあった。
人間じゃ。
しかしワシは挑戦した。出来ぬものに向かうのが職人の意地と誇りというものだ」
男はなおも話していたが、いつの間にか彼はアムの屍に覆いかぶさり、再び作業を、先程より幾分ゆっくりと、再開していた。
「ある決まった一連の行動をさせるのは簡単じゃ。その手順をあらかじめこちらの方から教え込んでやればいいのじゃからな。しかしそんな児戯にも劣ることなどワシの求めるところではない。ワシが造りたいのは人間であって、人間の格好をした教え込まれたことしできんような能無しではない。内に確固とした己れの秩序を、意志をもつ人間じゃ。難事業じゃったよ。いや不可能だったのかもしれん。ワシは世俗に背を向け、いや、構っている暇がなくなったと云うべきじゃな、日々機械の組み立てに励んだ。ワシは工房で寝食を営み、朝早くから夜更けまで働いた。来る日も来る日も、何年にもわたってだ。数え切れぬほどの試作品がこの机の上で出来上がっては、消えていった。立ち上がることすら出来なかったやつ、狂人のように喚き散らすやつ、負荷で自ら崩壊したやつ…。人間を造るなど、所詮神ならぬ一介の時計職人の手に余る仕事であったかもしれん。かなり頑固なワシですら、すっぱり諦めてしまおうと思った事もしばしばあった。
「そんなある日、ワシは夢を見た。多くの機械人形が蠢いておる世界の夢じゃった。それはまさしくワシの求める人形だった。そこで誰かが、何やら若い娘のようじゃったが、ワシにその機械人形の仕組みを、原理を、構成を、そして組み立て方すらも教えてくれたのじゃ。ワシのジイさんの理論を遥かに凌駕する、完璧と云っていいほどの技術、精密さじゃった。はっ、無理もない、夢なのだからな。しかし、翌朝、ワシはその夢のなかに現われた理論に非がないことを見いだし愕然とした。そしてその想像も及ばぬような素晴らしい理論の存在にワシはうちふるえ、狂喜し、陶酔した。それはまさしく完全な、完璧な理論じゃった。その理論に従い、近くの崖を毎日ほじくりかえし、必要なものを探し、揃えた。組み立ては、たったの三日でことたりた。それがほんの四日前のことか。今となっては何かがワシに憑いていたとしか思えん所業じゃて。そして……」
工房の片隅の床板に座り込んでいるサーの顔から頬杖が外れ、頭が支えを失って前方に倒れ込む。今朝の早起きが堪えたのか、日中の疲労のためか、それともアムのことがショックだったのか、サーは深い眠りに落ちていた。かすかにこう思いながら。
(そういえば、最近、時計堂で何か作ってるって酒場で誰かが噂してたなぁ)
男はサーの存在すら忘れ、というよりはじめから眼中になかったようだが、ただ一人、聞く者とてない繰り言を続けた。男の声はしんと静まり帰った夜のしじまに吸い込まれていったが、男の話はまだまだ当分終わる気配を見せなかった。

サーは物音に目を覚ました。そして一瞬自分の居場所が掴めず、眠い目をこすりこすり辺りを見回した。薄暗かった。そこは時計堂工房であった。
すでに夏の短い夜は明けているのだろうが、閉じられた窓からは何も見えなかった。微かに窓の鎧戸の隙間から差し込む光の筋があたりをぼんやりと照らしていた。
男は、サーが眠ったときからそうしていたかのようにアムの体にかぶさっていた。男の前の仕事机の上に横たわっているのは、もはや歯車やカムを剥出しにした無機質な機械ではなく、安らかな眠りについているアムだった。昨日あれだけひどく傷ついた肩のあたりには何の痕跡も残ってなかった。
「まぁ、こんなものじゃろ」 などと云って、男は壁に下がっているタペストリーのようなマントを引き剥がし、器用にアムの体に巻き付けた。やがてその作業を終えると、男はアムの胸を軽く叩いた。
すると、今まさに眠りから醒めたばかりといわんばかりにアムが起きあがった。
そして頭の中に残る夢幻のかけらを振り落とすようにして、アムは恐ろしく人間臭い仕草で頭を軽く振った。そして髪をかきあげるようにして伸びあがった。軋み音とかアムを機械らしく見せる要因は全くなかった。もはやアムは人間だった。
一体誰がこの娘の体内で蠢いているものが血肉ではなく歯車だと信じよう? 実際サーもこの男がどこかおかしいのではないかと疑っていたのだった。修理中のアムの体の内側を見た今ですら、自分がこの男にかつがれているのではないか、アムは男の本当の娘で、そして昨夜サーが寝ているうちに機械じかけのおもちゃと入れ替わったのではないか、などとかんぐっていた。
「サー、マスター、おはよう」
アムはそう云って仕事机から床におりたった。床がギシギシと呻いた。
「おっと、気を付けてくれよ、ぬしはワシの五倍以上も重いんじゃからな」
「?」
そのおもてに作りものとは思えない微妙な表情が浮かぶ。男の言葉に解せぬ顔をするアムは、別段かわったところもなく、昨日サーと一緒に歩き回っていたアムであった。アムはサーと目があうと、生気に満ちた笑顔をつくった。
「やれやれ、やっと終わりよったか。細かいだけあって手間がかかりよる。……娘さんよ、すまんがアムの面倒をしばらく見てやってくれんかのう。いやいや、大したことはない、ちょっと相手をしてやって欲しいだけじゃ。これからワシは都の宮殿に行かねばならんのでな。おそらく夜には戻れるはずじゃ」
男はサーの返事も待たずに、どこから引っ張りだしてきたのか、くたびれた皮袋を取り出し身に付けていた。
「何かいるものがあったら「時計堂」のなかを荒らしてくれ。工房になら大概のものは転がっとるはずだからな。ま、もっともそいつは、…アムか、もともと飯も休息もいらんようにできとるがな。ではそいつの面倒、頼んだぞ」
男はそう言い残すやいなや、出て行ってしまった。そうして当然といわんばかりの態度だった。
そして薄暗い工房に残るはサーとアムの二人、一人と一体だけとなった。
サーは昨夜の男の言葉を一つ一つ思い浮べた。それでいろんなことのつじつまがあうように思われた。
なぜアムは記憶がなかったのか?
アムは生まれたばかりだったからだ。
なぜアムは食事が細かったのか?
アムは食事の必要がなかったからだ。
なぜアムは時計の音に反応したか?
時計の音のする工房で生まれてきたからだ。
なぜ崖に多くの穴が開いていたのか?
男がアムの部品を掘りだしたからだ。
なぜアムは崖を懐かしがったか?
アムの部品は崖から採取されたからだ。
なぜアムは男と似ていたか?
男がアムを作ったからだ。
なぜ……
サーが思い浮べた疑問は、アムが機械であると考えるときれいにつじつまがあった。男の言葉から、状況からアムが生身の人間である、とは到底考えられなかった。
(でも…)
サーは思いを断ち切るように、軽く頭を振った。
(でも、やっぱりアムはアムよ)
それがサーの結論だった。
人間と機械を分かつものが何であるというのだ。昨日一日サーはアムの正体にまったく気付かなかった。知ってしまったとして何をどうかする必要があるのだろうか。何も昨日と変わってはいないのだ。サーは依然としてサーであり、アムも依然としてアムであるのだ。
二人は時計堂をあとにして、サーの家に戻った。男が帰ってくるまであんなに暗い時計堂の工房にいるのは体に良くないと思ったからである。

サーは家の中の掃除をしていた。昨日、時計堂に泊まり込んだおかげでただでさえの埃のたまりやすい石作りの家は埃だらけだった。
「アム?」
やけに静かなので、気になって部屋の中を見回すとそこにアムの姿はなかった。音もなくどこかに立ち去ってしまっていた。窓から外を見ても通りの石畳には人影一つない。男に頼むといわれた手前放ってもおけなかった。とはいえ、どうせ、行きそうなところが何箇所もある訳ではないのだ。おおむね昨日の崖か、時計堂……。
アムはどう思っているのだろう。己れが生身でないことを知っているのだろうか。知っていてなおかつあのように明るく振るまっていられるのか……。
歪んだ魂のアム。哀れなアム、お前の安息はいずこにある。
夢想が湧いては消える。夢想は妄想を呼び、妄想は千々に弾け飛ぶ。
サーは突然、啓示めいた唐突さでもって不安にかられた。胸騒ぎがした。
(まさか…)
サーの手から箒が滑り落ちた。そして入口の扉を開けるのももどかしく、掃除したばかりの床に埃が舞うのも構わず外に飛び出した。虫の知らせ、とも少し違う。何か強迫観念じみた不安、悪い予感がしたのだ。
昼下がりのきつい陽射しのもと、のどかな静けさのもと、サーは走った。なぜそんなに急かなければならないか自分でも分からなかった。
崖に辿り着くまで無限の時間を要したかに思われたが、実際そんなにかかるはずはなかった。
昨日の落石は未だそこに転がっていた。アムの体の部品も。近くの泉は再びこんこんと水を湧きだしていた。
「アム!」サーの叫び声。
「ここよ」
頭上で声がした。サーが見上げると、アムは崖の上に腰掛けていた。
「アム、あなたそこで何を……」
「私はアム。でも本当の名前もあるの。イリアス・ユーシス」
それは、アムは、もはやアムではなくなっていた。昨日サーと一緒にいたアムとは。というより今までかぶっていた小動物の皮を脱ぎ捨てた猛禽といったところか。ふてぶてしいまで落ち着きはらっていて、そのさまは別人と間違えるくらいだ。
サーは頭の奥が痺れるような感覚に襲われてその場にたちつくした。アムの方を見つめたまま。
アムの声。昨日のかすれた耳障りな音ではなく、生々しい肉声だった。
「正確には私の名前じゃないわ。時計堂のマスターの本当の娘の名前よ。あれでもマスターは、昔は結婚していたのよ。20年も前。それでマスターには一人娘がいたの。それがイリアス・ユーシス。でも今はもういないわ。幼いころ死んだの。運の悪い事故で。この崖で。その時マスターは相変わらず呑気に機械をいじっていたわ。
「マスターは娘を守れなかったことのを気にして、自分をおいつめ、ついにおかしくなってしまった。もともと世事に疎い人だったけど世俗にまったく交わりを持たなくなってしまったの。あまりにも可哀相だった。マスターは来る日も来る日も、あてもなく機械の開発に明け暮れ、寝る間を惜しみ、寸暇を割き、食事もろくろく摂らず、自分を苛むように働いたわ。マスターの体はもうボロボロだわ。だからこれが最初で最後の、親孝行」
「え……?」 サーがかすれた声で聞き返した。どうした訳か体が動かなかった。鉛の拘束衣でも着ているようだった。原因の分からぬ緊張でからだが震えた。
「私の名は、イリアス・ユーシス。時計堂マスター、ドア・ユーシスの手による機械人形にして、今は亡き実の娘。そしてマスター………父上に夢で機械人形の作り方を教えたのもこの私。そして私は20年前、事故で散ったマスターの娘、イリアス。こうして父上の側にいることが、マスター念願の機械人形の形をしていることが、せめてもの親孝行……」
「アム……あなた何を云って……」
「信じてくれなくてもいいわ、別に。私はイリアスの死にぞこないの亡霊よ。全ては、マスター、父上のため。狂える夢の具象に、狂言に付き合っただけだわ。 嘘はついてないわ。その証拠にほら」
そう云って、アム、イリアスは自分の腕に軽く爪をたてた。赤い筋がひとすじ走り、赤い玉がそこに膨れあがり、互いに繋がりあって血の雫となって腕から滴った。
「血が流れてるわ。私はイリアス。マスターの娘。すべてはうたかたの夢。じきに終わるわ。そもそも時計屋風情に人間が作れるはずがないもの。すべては幻。イリアスという亡霊に操られたアムは機械人形でも何でもないただのガラクタよ。私の作った幻、夢。そして夢はやがて覚めるわ」
彼女、アム?、イリアス?、は、自嘲的に笑った。
「あなたと会えて良かったと思うわ。サー。茶番は、父上の狂える夢は、私の親孝行はおしまいよ。そのうち、何十年かしたら向こうで会えるかもね。さよなら」
そして彼女は信じがたい鋭敏さでもって、サーの視界から消えた。すぐさまサーもその後を追ったが、素早さでは誰にも負けないと自負するサーが必死で追い掛けてもアムの姿はどこにも微かにも見えなかった。
「アムゥー!」
サーは叫んだ。声は深い森に吸い込まれ、応えは二度とかえってこなかった。

その日、夜になっても時計堂の主人は戻らなかった。
翌日になっても。二日たっても。一月たっても。
そうこうするうちサーのつとめる酒場の親父さんの調子も良くなり、サーも酒場に働きに出るようになった。
やがて時は万物を巻き込み、遅々とそして確実に流れていった。
日は流れ、月は巡り、年はうつろい、サーの身長もかなり伸びた。もう仕事先の酒場で子供と間違えられることもなくなるだろう。あるじを失った時計堂はあの薄暗い横丁の奥で人知れず荒れ果て、朽ちていった。
サーの酒場の噂では、時計堂の男は宮殿で日夜機械の研究をしてるとも、機械の技術を教えたあと口封じに殺されたとも、隣の国に亡命したとも云われていた。何の信憑性もない話し手におもしろおかしく好き勝手に脚色された噂だ。とどのつまり、あの男の顛末を知る者などいなかった。アムにいたっては噂自体なかった。とにかくあれ以来、時計堂主人やアムを見た者はいなかった。

荒れ果てて誰もいない時計堂は恐ろしいほど静まりかえっていた。時折汚れた店内を吹き抜ける風が唯一の来客だった。
乱雑に床いっぱいに転がる油が切れて赤錆の浮く部品はあの男の夢の残り香。
壁に貼られた油煙に煤けた数々の機械の設計図の書かれた羊皮は機械たちの墓標。
人知れず時刻を刻む柱時計は消えた主人の帰還をひっそりと待つ哀れな下僕。
風雨に晒され、朽ちていく時計堂は、機械に憑かれ、疲れた男の夢か現つか幻か。


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