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夢か現か幻か


蝶が舞っていた。
鮮やかな模様の羽をはためかせ、優雅に、妖艶に、そして蠱惑的に。見るものを魅惑せずにはおかない、何かを内に秘めて、挑発するような妖しげな舞をくりひろげる蝶。ときにはあでやかに、ときには清楚に。この世のものならぬ、あやかしの胡蝶。美しい。いかなる称賛の言葉も、この蝶を前にしては色褪せ、下らぬ戯言になるであろう。百万の世辞をもってすら、この美しさの半分も云い表わせまい。高価な美術品もこの蝶の前にはかすみ、単なるガラクタに過ぎなくなるだろう。形容することすら拒む、絶対の美、超然的美しさ。云い表わすことの出来ない美しさ、と云うしかない。これ以上は、すべてが冗長だ。
世俗には目もくれず、感嘆の眼差しを向ける人々を歯牙にもかけず、蝶は飛ぶ。
私は蝶が無性に好きだった。時間を忘れて蝶を追って山野を駈けまわったこともあった。蝶を探して森で迷ったこともあった。蝶を手に入れるために散財したこともしばしばあった。
必然的に、私はこの蝶が欲しくなった。しかし捕まえるなどという、不粋で野蛮な方法は許されない。許されてはならないのだ。繊細な美しさの蝶は、触れただけで弾け散ってしまうだろう。
ならば、眺めるだけでも十分だ。
我知らず、足が動き、私は蝶の影を追った。
胡蝶以外の風景は陽炎のようで、どこを歩いているのかすらおぼろげだった。半ば夢見心地で蝶を追っていた私は、ぬかるみに足を取られ、転んだ。蝶は私をひきつれ、いつしか樹海へと入っている。転んで、少し正気を取り戻し、ようやくそのことに気が付く。辺りは、昼だというのに暗く、うっそうとしていて、じめじめしていた。
のろのろと私は立ち上がった。
胡蝶は見えなくなっていた。あたりを見回して、蝶を探した。
胡蝶はいなかった。まるでそれが幻であったかのように。

灼けるような、激しい痛みに私は目を開けた。
呻き声が口から洩れた。
目は開いたが、頭の中は霧でもかかったようで、何も考えることができなかった。動こうとしたら、四肢が痙攣しそうな、痛烈な苦痛が襲ってきた。苦痛の悲鳴をあげたはずだが、弱々しい喘ぎ声にすぎなかった。苦痛で動くことはおろか、声をあげるのも、息をするのも容易ではなかった。息をすると、胸の奥で、ゴボゴボという音がして、鋭い痛みが走った。
砂漠の小さな岩場を背に、私はほとんどうずくまるようにして座っていた。
浅い呼吸を繰り返すと、ようやく意識がはっきりしてきたが、それにともなって痛みも激しくなった。ひどい痛みだった。気をゆるめると、すぐに気が遠くなるようだった。
しかし、この痛みのそんなに長い間私を苦しめはしないだろう。私の命は間もなく果てよう。
死。そう思っても何の感情も湧いては来なかった。恐ろしくも、虚しくも。
瀕死の私と裏腹に、辺りは汗ばむくらいに晴れており、天には太陽が輝いていた。風も凪いでいて、いい日和りだった。
痛む腹部に手をやると、ずるりと、不快な感触があって、手がすべった。手は赤黒い血にまみれていた。そして、血は死臭を漂わせていた。
遠くで微かに嬌声がしているが、私にはもはやどうでもいいことだ。もしかしたら、あれは戦場の音だろうか?
意識がかすむ。すべてが空ろになる。頭が朦朧となる。照りつける太陽も、耐えがたい激痛も、私にはもう感じない。

あるとき、戦役があった。国境でのこぜりあいだった。
私は、兵士だった。わあ、と怒号をたてて敵が攻め込んできた。槍か何かの武器が私の腹部に当たった。憶えているのはそこまでだ。

蝶が舞っている。辺りはうっそうとして、光さえ入り込むことを許されぬ深い樹海の奥地だった。
私は蝶を追っていた。
胡蝶はあるどこかを目指しているかのように淀みなく軽やかに、風のような速さで飛んでいった。
空気が湿気を含みだしたことに気が付いたとき、眼前に大きな沼があらわれる。うっすらともやが出ていて、対岸は見えなかった。
舞う蝶は沼の上に出た。
私はそれを追いかけて沼に踏み込んだ。
我関せず、といった様子で胡蝶は進みを止めなかった。そうだ、高潔な蝶が私のような下賎の者を気にするはずがないのだ。
腰まで水に浸かって、私は蝶を追った。
突然、蝶は宙で旋回し、舞いおりる。そして葦の上に鮮やかにとまった。葦は私の目の前にあって、手を伸ばせばとどきそうだった。無意識のうちに、手を伸ばした。しかし、私が手を触れてしまったその瞬間に、この胡蝶はただのありふれた生き物に過ぎなくなってしまうだろう。この生き物が私を引き付けるのは、私などには手の届かない神秘さなのだから。だから、触ってはいけない……。私の中の醒めた意識が云った。
どこからともなく巨大な魚が現われた。水中にゆらめく、黒い影。突如、魚は巨体を宙に踊らせ、飛沫をあげて、蝶に襲いかかった。
ところが、蝶はおのが命運をわきまえているかのように、そしてそれを享受しようとしているように動かなかった。
狂おしいまでのもどかしさ。声にならぬ嘆願。逃げろ。逃げてくれ。今一度宙に舞え。魚の毒牙より逃れろ。
魚が弧を描いて虚空を舞った。時が止まったかのような長い一瞬。
飛沫をあげて、再び魚が水中に没したとき、蝶は消えていた。空にも蝶は舞っていなかった。
蝶は魚の餌食に……。
私は理性を失った。自分でそう認識しながらどうにもならなかった。そして、自分でも御せぬ、体が焦げつかんばかりの激しい怒りを感じた。この、この畜生めが!

我にかえったとき、魚は私の目の前にいた。もう動かない魚の血みどろの残骸が。
私は怒りにまかせて、魚を殺し、引き裂いた。魚のはらわたを切り開き、乱暴に引き千切った。そうやって魚の体内から蝶を助けだそうとするかのように、憑かれたように。
しかし、蝶はいない。
突然、私は自分の手が血まみれになっているのに気が付いた。
私は膝を折って、魚の死骸のうえに嘔吐した。
そして私は悟った。この手の血は生涯消えないのだ。己れの罪深い所業のあがないとして。私は激情にかられ、血まみれの手で顔を覆い、泣き叫んだ。暗い森が、私の声を吸いこんでいく。
胡蝶はどこにもいない。

廃墟があった。かつては砂漠のオアシスに栄えた一大都市だった。
しかし、遠い昔に泉が干上がって住民が消えてからは、ここに立ち寄る者すらいない。もはやこの街は人々に記憶からも消え去り、地図からも消え去った。ここは人々の記憶から消え去った街だった。石造りの廃墟は、砂塵をかぶり、強烈な陽をまともに受けて、砂に還りつつあった。
私はこの廃墟にいた。
砂漠を横断中に方角を誤って、このような地図にものっていないうらぶれた廃墟やってきたのだ。砂漠に囲まれたここの大地は干涸び、私一人を潤すのも無理だった。涸れた井戸の底はもう何年も水に浸されたことがないようだった。
私がここにさまよいついてもう丸一日になる。急ぐ旅ではないが、潮時だ。時の流れに忘れ去られた廃墟にとどまる必要はない。手荷物をまとめ、防塵マントをはおり私は砂漠に足を踏み入れた。
………
どこかで、笑い声がした。
ここは廃墟になって久しいはずだ。周りに何もないここに住みつく人間がいるとも考えにくい。とすれば私の空耳に違いない。私は、歩きだした。暑くなる前に出発しなければ。
背後で再度、笑い声が聞こえた。
私は立ち止まり、ふりかえった。気味が悪いというより、小馬鹿にされたみたいで面白くなかった。
大声で、誰かいるのか、と呼んでも何の返事もない。
人を化かすなにかの、罪のない悪戯だ、そう決め込んで私は出発した。

砂漠は無慈悲だった。
晴れあがっていた空は次第にかきくもり、太陽を覆い隠してしまった。おりからの強風も、私を悩ました。まきあがる砂塵は視界を包み隠し、私はどっちを向いているのか皆目見当がつかなくなった。
しかし、進まねばどこにも行けないのだ。
それにしても砂漠でこんな天気も珍しい。この空模様はどうしたことだ。日の出間もないというのに空は夜のように暗く、自分の足元すらよく見えない始末だ。風はますます激しくなり、砂に目も開けていられない。口といわず、耳といわずもう砂まみれだ。
ひとまずこの悪天候をしのがねば。おあつらえむきにあそこに見えるのは……
それはついさっき私が出てきたばかりの廃墟だった。

崩れかけた廃屋で一休みして表に出てみると、風は止んでいた。
晴れたのはいいが、どうも腑に落ちない。あまりにもタイミングが良すぎる。これではまるで何者かが私を妨害しようとしているようではないか。すでに陽は高く、気温も上がりきっていた。出発はあすに延期するしかあるまい。
それならばさっきの笑い声の主を探すのも一興だろう。ちょっとした退屈しのぎになるだろう。そう思った途端、どこからともなく例の笑い声がした。
この廃墟は広く、見通しも悪い。そのうえ私はここに不案内だ。つまりは迷路だ。小一時間ほどあたりを探しても何も見つからない。命あるものは何一ついない。
たしかに声が聞こえたと思って角を曲がると、そこは袋小路だったり、足音らしき物音をおいかけていったら、それは風になびく扉の軋みだったりした。ここは生物のいない、死の廃墟だ。
それでもあいかわらずときおり笑い声が聞こえる。馬鹿にされたとしか思えない。いつしか陽も暮れ、私は腰を落ち着け、火を熾した。食事をすまし、横になる。
うつらうつらと寝入るとき、ねぐらの外を蝶がひらりと舞っていったのが見えた。
蝶…? なぜこんな砂漠の真中の廃墟に…?

目は覚めたが、もう何も感じなかった。眼前に広がる広野も、照りつける陽射しも、そして私を死に追いやる傷の痛みも。意識を保っているのしか分からなかった。いや、それすらもどうだか。これは死につつある私の夢かもしれない。生への執着はとうに消え去っていた。生きたいとも、死にたいとも思わなかった。ただひどくのどが渇いていた。水が欲しかった。
さっきから、水をくれ、とひらすら繰り返していた。何かの呪詛のように。聞く者がいないことなど頭になかった。
視界に何かが入った。そしてそれはしばらく目の前にいた。かろうじて見えていることは分かってもそれが何か分かるまでかなりかかった。
それは胡蝶だった。
ふいにそれは見えなくなった。私は目で追うこともできない。気力もなかった。風に舞う木の葉だったかも知れなかったが、確かめる気もおきなかった。
蝶。
昔、どこかでその蝶を見たような気がした。それともそれは死にゆく私の妄想か。
蝶をおって森のなかに行ったことが……?
そして私は魚を殺した。
では私の手にこびりついた血は魚のものか?
それが現実にあったことかどうか、いやもしかすると夢だったのかも……?
脈絡のない、そして意味のない考えが湧いては消えた。
また視界に何か見えた。今度は胡蝶ではなかった。
その正体が分かるまでさっきの蝶のときよりさらにかかった。それが人の姿をしていたことが分かるまで。

廃墟。砂漠の死の街。何者も近寄らぬ、時から隔絶された廃墟。
何者かの見えざる力が私をここから出さしてくれなかった。構わず出発すると、必ず悪天候が私をこの廃墟に連れもどした。
水筒の水はとうに無くなっている。体力の浪費を嫌って日中は物陰でうずくまり、涼しくなる頃、動き回っていたが、それもそろそろ限界だ。人間は水なしではそう長くは保たない。
ここはまさしく死の廃墟だったのだ。迂闊に立ち寄った人々を死に導く。
死の廃墟でありながら、しかし、ここは無人ではなかった。相変わらず例の笑い声は風にのって聞こえていた。たまに人の気配を感じることもあった。通りに雑踏の音を感じたときもあった。そこかしこから生活の匂いがしていた。私の目に見えぬいにしえの亡霊の。亡者の蠢く街。
私のいる廃屋の戸口で物音がしたので、私はそっちを向いた。人が立っていた。
ひどく表情に欠けた顔つきをしていて、一見しては男か女か、それ以前に生きているのかすら分からなかった。切れ長の目にはどのような感情も見えなかった。それはくすんだ色の帽子を目深にかぶっていたせいでもあるが。顔色は蝋のように白く、その白さは死人のものとも見えた。白い陶器のような肌だった。そして、この暑いさなか、彼は(それとも彼女か?)煤けた色合のトーガを身に着けていた。
「旅人よ、この街から立ち去りたいか?」
たっぷり一呼吸分たってからその人物は云った。抑揚の乏しい、横柄な響きのする女の声だった。疲れ切った私にもそれは分かった。
「もちろん、だ」
突然の成り行きに驚きながらも、私は正直なところを云った。彼女が何者であれ、これは本心だった。
彼女は微動もせず、そこに立っていた。返事が聞こえなかったような素振りで。
現われたときと同じくらいだしぬけに彼女は消えた。誰もいなくなった戸口には彼女の来訪の痕は全く残されていない。ともすると、それは実際にあったことかどうか分からなくなるような心地だった。
しかし、それが夢であれどうであれ私に関係なかった。私は立ち上がった。帰らなければ。この廃墟は私のいるところではないのだ。私には帰る街が、帰りを待つ人がいるのだから。
私は歩きだした。

大音響に私は振り向いた。ちょうど廃墟から踏みだしたときだった。
街が消えていく。潮が満ちてすべてを隠し去ってしまうように、廃墟が砂漠に没していった。砂が舞い上がり、辺りは乾いた砂に染まった。
砂埃の中から先程の人物が現われた。
「行け、旅人よ。この廃墟はもう消える。
ここが廃墟になったのは神代の昔。
しかしそれでもまだこの廃墟は街として地上に存在したかった。云うならば、この廃墟は街として死に損なった亡霊。
だが、人が住まぬ街は街ではない。街は住民を必要とする。
この廃墟は住民を求めて、訪れる旅人を繋ぎ止めた。しかし誰もこの廃墟に止まってはくれない。皆あなたのように逃げ去ってしまう。この廃墟はいかなる住民も得ることがなかった。
ついに、この廃墟は街への未練を捨て去り、滅ぶことを認めた。己れを必要とする住民の不在を受け入れた。
そして、今この廃墟は消える」
そう平坦な声で云い残すと彼女は砂煙に消えた。あの微かな笑い声が聞こえた。それは彼女の声だったのだろうか?
「我こそ、この廃墟。我を必要とするものがいないなら、我は消え去ろう。輝かしき昔の街の記憶に生きよう」
そう彼女の声が云い終えると突風がやってきた。
風が砂を蹴散らし、視界が戻ったとき、果たしてそこには何もなかった。

私はひどく疲れていた。砂漠を越えるため無理をしたのが祟ったのだろうか。とにかくじきに街に出るだろう。何か忘れているような気もしたが、忘れるくらいなら大したこともあるまい。私は先を急いだ。街はすぐそこだ。

私は我にかえった。
うずくまっている体が異様に重い。立ち上がろうとして、身じろぎ一つ出来ないことに気が付いたとき、自分の状況を思い出した。私は死に瀕していたのだ。
目の前にはいつ現われたのか、何者かが立っていた。
それの正体を突き止めようなどとは思わなかった。ただ猛烈に水が欲しかった。
水をくれ、オレは惚けたように云った。
水を……くれ…水を…………く…
今度こそダメかもしれない。死神は私の首に鎌の刃をあてた。私は死ぬのだ。
液体が私の口にあてられた。水? 目の前の人物か?しかし私にはそれを吸い込むことすら出来ない。五感が消えていく。だいぶ前から痛覚は麻痺していた。口内に広がる血の味も消え、ぼんやりとした明かりでしかなかった視覚も完全に暗転した。聞こえるのも自分自身のよわった心臓の鼓動だけだった。いつしかそれも遥か彼方へと消え去り……。
そして、暗く、冷たい、そして無慈悲な虚無がやってきた。

「っ」
鋭い悲鳴をあげて私は眠りから覚めた。
眠り? 私は寝ていたのか? それではすべては夢だったのか?
見回すとそこは私の家近くの場末の酒場だった。テーブルの上には安酒のビンが並んでいる。私はテーブルにつっぷして寝ていたらしい。
夢? すべて夢だったのか? ではこの生々しい記憶は一体?
「あれ、お前生きてたのか、心配したぞ」
後で声がしたので、振り返ってみればそいつは古くからの知り合いだった。
「何? 生きてた?」 身におぼえのないので、怪訝に思って私は聞き返した。
「だって、お前、国境の戦役に徴兵されてたろ。噂じゃ全滅したっていうから、お前もてっきりやられたと思ってたんだが、そうか無事だったか。お前はとうに死んじまったんだと皆あきらめてたんだよな、葬儀もしちまったし。
そうか生きてたか、めでたいこった、とにかく祝杯といこうぜ」
何かがおかしい。気のせい……いや違う。たしかに何かがおかしい。私が死んだだと。死んだ。葬儀もすましただと。ではここにいる私は何者だ? そうだ、私は死んだはずだ。あの戦役で傷を負って。
いや違う。違う。何が違う。
腹部に痛みを感じて手をやると、手は血まみれになった。やはり私は死んでいたのか。
「うわああああ」
私は混乱し、そして恐怖して思わず叫んだ。
「おい、どうした、落ち着け」と私の知り合いが手をさしだした。その手は腐れ、ただれ、腐肉は崩れ落ち、白骨となり、その骨すら風化して崩れた。ここは、ここは私の知っている場所ではない! 私はそう叫んだのかもしれない。
直後、風景は一変した。ここはあの砂漠の廃墟だ。私はすでに亡霊の一員として、くちはてた廃墟にやってきていたのか。そんな理不尽な、不条理な。そうだ、これは夢だ。ならば説明もつく。
蝶?
ふと気が付くと、廃墟は消えていた。幻の酒場も、知り合いも。あたりにはおびただしい数の艶やかな蝶が舞っていた。
そうだ、私は大空を飛ぶ胡蝶なのだ。
人間などという下賎な存在は気にしなくてもいいのだ。あんな下らぬものはうたかたの夢に過ぎないのだから……。

「お客さん、起きてください。もう看板ですよ。部屋の方へ戻ってくださいよ」
酒場の親父に揺り起こされて私は目を開いた。
ここは酒場だった。故郷から遠く離れた異境の地の。
ずいぶん、長い間寝ていたらしい。私がここにきたころあれだけいた客はすっかりいなくなって、残るのは私一人であった。主人に云われたように二階の宿の部屋にいった。
夢をみた。戦場で死ぬ夢。蝶を追う夢。廃墟に迷い込む夢。しかし所詮は夢だった。思い出でも何でもない、断片的な映像の集合。私は蝶に大した興味を持っている訳でもないし、戦場に出かけたことも、砂漠の廃墟に迷い込んだこともない。
着替えて、横になろうとした。その時初めて気が付いた。私の腹にえぐりとったような傷にそっくりの痣があったのだ。もちろん身におぼえはない。
いや、私は戦場に出かけたことも……。
「すべての夢は現実。すべての現実は夢」
いつの間にか部屋の入口のところに人が立っていた。
「私を憶えてるかね?」
忘れようはなかった。夢の中で死に瀕した私の死に水をとってくれた人だ。いや、それに伴い、すべてのことを思い出した。あれは夢ではなかったのだ。私が蝶を追いかけまわし、砂漠で廃墟に迷い込み、そしてあの国境の戦場で死んだのはまぎれもなくすべて現実だったのだ。
「つまり」
その人は続けた。
「夢というのは醒めて初めてそれに気が付くように出来ている。よしんば、夢のなかでこれが夢であるといったところで確証はない。だから、夢から醒めるまではそれは現実。夢の中では夢が五感をすべて支配してしまう。夢が五感を支配している以上は、夢はその人にとって間違いようのない、現実」
「あんた、一体何者だ」
「忘れたか」
そういうと彼は消えた。あとに蝶が残った。魚の餌食になった蝶によく似ていた。

それを境に、私は夢から醒めなくなった。取り合えず一つの世界の内側だけで生きているように思える。しかし、おそらくはこれとて夢に違いないのだ。だからと云っても私には何も出来ない。
この世界の私が起きているということはどこかに、夢を見ている私がいるということになるのだろうか。夢の世界。幻の日々。しかし私は世界を感じ、生きている。そう感じる私自身が私の夢の中の住人だとしても構うものか。
私は生きている。ここは現実だ。現実だ。現実だ。決して夢ではないぞ。


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