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闇に蠢く


覚醒。
突如として、私は私となる。頬に冷たい石畳の感触。
辺りは薄暗い。湿って澱んだ匂い。ここはおおかた渇れた水路か何かの名残だろう。闇に蠢くネズミの音、滴る水音。
体が重い。虚脱感が鉛のようにのしかかっていた。起き上がる気すらしない。それとぽっかりとした喪失感。何も思い出せないのだ。そもそも目覚める前に何があったのか?
記憶?
私は驚く。自分が何も知らないことに。おのが名すら。

私は一体ここで何をしているのだ?
自分に問う間もなく、唐突に答えは見つかった。いや、そんな生易しいものではない。本能が知っていた。
そうだ。あの男だ。私はあの男に囚われ、飼われているのだ。
あの男。
それは人間の皮を被った鬼。私をその顎にとらえた悪魔。
衝動。逃げださねば。あの男になぶり殺しれる前に。
そうだ立ち上がれ。そして進め。あの男から一歩でも遠ざかるために。
私は立ち上がり、虚脱感に打ち勝ち歩きだす。
辺りは暗く、壁があっても、ほとんど突き当たるまで気付かない。
足元には藻がはびこり、ひどく滑る。しかし、私は歩いた。
そして、どこに進んでも行き止まりであることに、自分が篭中のとりこに過ぎないことに気付かされる。
それでも逃げねばあの男に殺される。否、死ぬことすら叶わぬ。
必死で抜け道を探した。しかし、依然、私は鳥篭の鳥でしかなかった。
時間だけが無為に流れていく。
いまや、すっかり絶望感に苛まれた私は、体が水溜まりにまみれるのも構わずその場にへたりこんだ。私はこのまま誰に見いだされることもなく、この暗渠で朽ちていかなければならないのかと思うと、狂いたい気分だった。狂ったほうがいっそ楽だろうと、自分が発狂するのを願ったのすらもう昔のことではなかったのか?
ネズミの音でない物音に顔を上げると、あの男がいた。私を捕らえ、私を苦しめ、私を支配している鬼畜が。
「探したぞ。全く面倒かけよって。勝手にうろつくな。さぁ戻るんだ」
私の頭の奥で何かが弾け飛んだ。
発作的にその場から駆け出した。こうしたところで無駄だということは、頭では分からなかったが、本能が知っていた。しょせん逃げられないのだ。しかし、捕らえられて手の内で大人しくしている獲物がいるものか。力のかぎり抗ってやる。

何がどうなったのかは分からない。
私が駆け出した途端、私は私でなくなった。一足ごとに力が抜けていく。
薄暗い辺りの景色が急激に遠ざかり、かわりに空虚が襲ってきた。
私は意識を失い、異臭を放つ水溜まりに崩れ込んだ。

霧。そして、肌に貼りつくような、陰欝な雨。森を覆い尽くす白い水煙。
私は走っていた。木立の間を、白乳色の霧の中を、空を切り裂き、ひたすら。あの男から逃れるため。自由を手中にするため。
不思議と息切れもしない。これならどこまでも、そう、星まででも走っていける。
走る。走る。走る。
これなら、或いは逃げ切れるかも……
そう思った刹那、私は転んだ。いつしかそこは森から、湖沼地帯に変わっていた。
溜め息をついて立ち上ろうとしたとき、私は凍りついた。
どういった具合に転んだのやら、私は濁った沼地にどっぷりとはまりこんでいた。もがけばもがくほど沈んでいく。先程までの走りとは裏腹に、体の自由がきかない。
泥水は私の腰を浸し、胸を濡らし、着実に私を飲み込んでいく。
私は己れの迂闊さを呪った。これがあの男から逃げだしたことに対する代償なのだろうか?
沼の縁には人影もなく、かすかに木の葉を叩く雨音しかきこえてこない。
顔に水が届いた。もう間もなく、私は沼の底に横たわる。そう思っても、恐くも哀しくもなかった。不思議に落ち着いていられた。これがその男の手から逃れてことに対する代償なら、それでもいいと思った。
死。そうすれば何も感じなくなる。何も分からなくなる。そう、あの男のことも、何もかも。死すら私は甘受しよう。
閉じた口からぬめる水がのどに流れ込んでくる。むせた。
今度この世に出てくるときは、もっと女の子らしい生き方をしたいな……
沼の水面から最期に見えたもの。
沼の岸から私を見つめる男の、悪魔の眼差し。
溶暗。

覚醒。
夢? いや現実? 記憶の澱。
そうだ。繰り返しだ。
何度も何度も。今までもあの男の手を掠めて逃げだしたことは、何度もあったのだ。
幽閉されている牢を逃げ出し、迷路のような暗渠を抜け出し、そして廃墟を抜け……
どうやっても逃げ切れなかった。いかに速く走ろうと、いかに巧みに脱走しようとも、あの男は現れた。そして捕まり、気が付けば、いつもの湿った薄暗い地下牢の中。
もはや、いつか誰かが、私に救いの手を差し伸べるのをじっと待つしかないのかもしれなかった。しかし、やれることはやらねば。一〇〇回しくじっても一〇一回目に成功しないとも限らないのだ。逃げなければ。さあ、立ち上れ。進め。そして逃げろ。
進むうち、突然、目の前に落ちてくる鉄格子。そしてその向こうに現れる男。
「いい加減にしろ。諦めな」
諦められるものか。しかし、たぎる心中とは裏腹に抜けていく力、物憂いけだるさ。鉄格子の冷たさを手に感じながら、私は私でなくなる。

初めてこの地下牢に放り込まれたのは一体いつの日だったか。
忘れたい記憶の断片、夢とも現実ともつかない夢の数々。私がここにいるようになった理由など、遠い幻だ。そうであったと思い込んでいるみたいなものだ。初めから私はこの暗がりに生を受けたのかもしれない。玩ばれるためだけに。
ここは家畜の柵だ。違うのは私が喰われると知っているだけのことだ。

この暗い地下の暗がりにも、陽の光が当たるところがある。
遥かな頭上の石垣の小さな隙間から、ほんの短い時間だけ陽が差し込んでくる。暗渠とネズミの鳴声と腐った水の匂いとこれだけが私の全世界だ。

積年の憎悪。
今の私を支えているのは、あの男への憎しみだ。
喜怒哀楽。
もとより喜と楽などない。哀も涸れ果てた。
怒が涸れたとき、私は何か別のものになるのかもしれない。

もし私が逃げのびても、新たな贄が私にとってかわるだけに過ぎないのだろう。こんな悲惨な人間は私一人で十分だ。
あの男さえいなければ……
最後の方法。これが失敗するようなら、私は終わりだ。総てを呪いつつここで、この地下で短い生涯を過ごすのだ。

痛みも痒みもないまま、出し抜けに左手が動かなくなった。そういえば、ここしばらく、気分がすぐれなかった。どこか体の調子が悪い。
いや、そもそもこんな陽も差し込まぬような地下で健康だったほうがおかしいのであって、むしろ当然のなりゆきだ。ロクな食物ももらえず、私に出来ることと云えば、胎児のようにうずくまり休むことだけだ。
男は私を弄んでいた。時折顔を見せては面白くもなさそうに私を見ている。
男は知らないのだ。
私が手追いの獣であることを。そして男を、自分を殺そうとしていることに。捨身の私に恐いものは何もない。

気分はますます悪くなっていく。左手だけでなく、左足も調子が悪い。よほどのことがないかぎり、私は身動きをしなくなった。おそらく私はこのまま、朽ち果てるのだろう。ならば、もう迷うことはない。
機会は間もなく訪れた。
男は珍しく無警戒に私に近付いてきた。
依然、掴みかかって殴ろうとしたことがあるので、男は滅多に私に近付こうとしなかったし、近付かなくても男は私の意識を奪えたからだ。しかしここしばらく、ぐったりしている私の様子に男は油断しているようだった。
男はゆっくりと近付いてくる。私は朦朧となっている振りをした。実際かなりそうなってはいたのだが。
あと二歩。
あと一歩。
左足が動かなくても、飛び付くことぐらい何とかなる。
左手が動かなくても、男の咽笛にくらいつくことくらい何とかなる。

ことのほか呆気なかった。
呻き声をあげて、男は倒れ、動かなくなった。
口から滴る血を拭うと、私は男の亡骸に並ぶようにして地面に倒れた。片足では立つこともままならないのだ。
虜囚の日々は終わった。私は自由だ。私を追うものの無くなった今、ここから逃げのびることはいつでも出来る。陽の光を全身に浴びれる。何者に怯えることもなく生きていける。数々の夢想を思い浮べながら、私は笑った。生まれて初めて笑ったのかもしれない。
疲れか、気の緩みか、それとも……
安らかな気分で、私は意識を失う。しかし、今度目覚めても男はいない。私は自由を勝ちとった。この薄暗い住みかともおわか……れ…………



しかし彼女は再び目覚めることはなかった。



王宮下級技師。
腕は良い。性格に問題あり。
行方不明。廃墟となっている王宮の地下牢で密かに機械人形を開発していたとの情報もあるが、未確認。



誰も知らない地中深いところに、自ら作り出した機械に殺された男の骸と、自分を調整してくれる男を殺してしまったために止まってしまった錆付いた少女の機械人形が、寄り添うようにして眠っている。そして未来永劫誰にも見いだされることはなかった。


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